第一章:拾った仔猫

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3  目覚めた時、隣に万理の姿は無かった。枕もとの時計に目をやると午前十時過ぎ。昨日は遅かったし、少し寝過ぎてしまったみたいだ。蘭子は左にゴロンと転がって俯せになり、テーブルに腕を伸ばす。しかし散乱するペットボトルやら雑誌やらを引っ搔き回しても、テーブルの上にスマホは見つからなかった。  「あれ? 酔っぱらって何処かで落としたかな?」  少し冷静になって、昨日の出来事を思い出してみる。  そうだ。昨夜はあのまま眠ってしまったのだ。蘭子は腕をテーブルから床に移動させ、その辺をまさぐってみる。そして遂に、自分が脱ぎ散らかしたジーンズが床に放り投げてあるのを探り当てたのだった。持ち上げたジーンズのポケットに手を突っ込んで、やっとの思いでスマホの発掘に成功する。  開いてみると、バッテリーが残り10%しかない。昨日、充電せずに眠ってしまったからだ。「あちゃぁ~」と独り言を漏らした蘭子は、枕元に埋もれていた充電ケーブルを引っ張り出してスマホに突っ込んだ。するとiPhoneが「ポオォン・・・」と鳴り、接触の悪い純正ケーブルから無事充電が開始されたことを告げた。  バッテリー残量問題から解放された蘭子は、横向きのままスマホをいじりだした。そしてホーム画面をスライドさせた際に、LINEのアイコンに赤丸の通知が有るのを認めたのだった。  開いてみる。万理からの伝言だった。  ─ ちょっと出掛けてくる  蘭子はスマホを閉じてテーブルの上に置いた。そして万理の髪からのシャンプーの移り香が残る枕に、力尽きたように突っ伏した。少し二日酔いなのか、頭が重い。再びゴロンと転がって、元いた場所に戻った彼女は天井を見上げながら左腕を額の上に乗せる。蘭子はそのまま目を瞑り、昨夜の出来事の反芻を始めた。  蘭子の愛撫に全身で応える万理。彼女が悲し気な表情で昇り詰める度に、蘭子は言い様の無い愛おしさを万理に感じた。そしてそのお返しに、今度は万理が蘭子を悦ばせ、蘭子も何度も高みに達した。二人は幾度となく互いを求め合い、そして確かめ合ったのだ。  横向きに寝た万理の脚を痛々しいほどに広げ、その露わとなった部分に自分のを押し付けるようにしながら、蘭子はゆっくりと腰を動かした。その動きに合わせて万理が甘美な声を漏らす。彼女の大きく広げられた方の脚を抱きかかえるような姿勢で、徐々に激しさを増す腰の動きが、更に万理を悦ばせる。すると彼女は「一緒に・・・ 一緒に・・・」と、うわ言のように懇願した。  しかし蘭子が愛撫の動きを緩めることは無かった。万理が乱れれば乱れる程、蘭子は執拗に激しく彼女を攻め立てた。そして、次第に悲鳴にも似た声を上げ始めた万理を見て、彼女が再び快楽の頂へと登頂しつつあることを認めた蘭子は、それまで自分に課していた全ての枷を解き放ち、自らも快感の虜となって一直線に絶頂へと駆け上ったのだった。  二人はほぼ同時に脱力し、そして静寂が訪れた。二人の荒い呼吸音だけが、その部屋を満たしていた。その後の二人は、互いの身体をまさぐり合うように抱き合いながら、いつまでも唇を重ね続けたのだった。  蘭子は心から感じていた。自分の人生に無くてはならないものは、他でもない万理なのだと。彼女が傍にいてくれるのならば、何を失っても構わない。それが偽らざる蘭子の気持だった。  そんな想いに耽っていると、ガチャガチャと音を立てて玄関が開いた。万理が戻って来たのだ。コンビニのレジ袋をぶら下げた彼女が部屋に入ってくると、いまだにベッドでシーツに(くる)まってゴロゴロしている蘭子を認めた。  二人の視線が重なった。  「起きたな、寝坊助」  「えへへ・・・ おはよう」  「もうおはようの時間じゃないよ。もう直ぐお昼」  「みたいだね」  そう言って身体を起こした蘭子の身体からシーツがスルリと滑り落ち、彼女の引き締まった裸体が姿を現した。それを見た万理は、昨夜、あんなにも肌と肌を重ね合わせたにも拘らず、ほんの少しだけ顔を赤らめた。しかし、直ぐに気持ちを切り替えて言う。  「冷蔵庫空っぽだったから、コンビニで適当に買って来ちゃった。お酒しか残ってないんだもん。今日はお家でお昼にしよ」  「うん、そうだね。私、とりあえずシャワー浴びてくるよ」  蘭子は「よいしょ」と言って立ち上がり、全裸のままバスルームに向かう。その途中、ちょっと寄り道をした彼女は少し背伸びをしながら、昼食の準備を始めていた万理の頬にキスをした。万理はくすぐったそうに首をすくめ、クスクスと笑った。 *****  あれは二年前の出来事だった。新宿でのライブを終えた蘭子がライブハウスの裏手から出てくると、仔猫のように(うずくま)る万理を認めたのだった。ポツポツと降り出した雨を避けるように、ビルから張り出したエアコンの室外機の下で膝を抱えていた。明らかに家出風の風体であったし、面倒ごとに巻き込まれるのは御免被りたかったが、まだ若い女の子を夜の新宿に放っておくわけにもいかず、蘭子は彼女をつい網島のアパートにまで連れ帰ってしまう。まさに野良猫を拾うようにだ。そしてそれ以来、万理は蘭子の部屋に居付くようになり、現在に至っている。  家庭に問題を抱えているらしい万理は、そのまま蘭子の部屋に住み着いて、家に戻ることは無かった。その問題とやらを蘭子が問い質すことは無かったが、おそらく父親絡みのゴタゴタであろうことは、想像に難くない。蘭子自身にも記憶が有る。一時期の女子にとって、父親ほど不潔で煩わしく、腹立たしい存在は無いのだ。父親の吐いた空気を自分の肺に入れることを想像しただけで、身の毛もよだつ程の嫌悪感に襲われる。  しかし、そんな理不尽な思いも大人になるにつれて次第に薄れていって、いつしか普通の父娘関係に落ち着くものだ。今となっては、父親の何をそんなに毛嫌いしていたのかすら思い出せない。むしろ父に対して辛く当たっていた当時の自分の、幼稚極まりない姿を思い出しては、後悔と贖罪の想いに駆られるようになるのだ。万理はまだ、そこまでの境地に到達できないのだろう。蘭子はそんな風に思い、彼女の部屋に居座る万理を優しく迎え入れたのだった。  そして一つ屋根の下で暮らすうちに、二人の関係は次のステージへと移行した。お互いをパートナーとして認め合うほどの深い絆が築かれていったのだ。二人とも、元々そういう(・・・・)資質が有ったのかどうかは判らないが、もう彼女無しでは生きていけないと思ったし、万理のいない人生に意味があるとも思えなくなっていた。万理も同じように感じているのだろう、甲斐甲斐しく蘭子の身の回りの世話を焼くのだった。そう、二人はもう家族だった。  ベッドで眠りに落ちる前、二人はよく話をする。万理が二十歳になったら、パートナーシップ制度を活用しようと。法的な効力は無いけれど、二人を夫婦として認めてくれる渋谷区か世田谷区に引っ越して、晴れて家族として共に生きようと。その話を持ち出す度に、蘭子の腕に抱かれる万理の瞳はキラキラと輝くのだった。  その頃には、自分は大学を卒業している筈だ。今は親からの仕送りで生活させてもらっている身分だが、二人で新生活を始める為には、先ずは生活基盤を整える必要があると蘭子は考えていた。高校中退の ──という扱いになっているのかどうかは判らなかったが── 万理に、負担になるような仕事はさせられない。となると、いつまでバンドを続けるのかという問題に対し、他のメンバーとは異なる視点で結論を出さねばならないだろう。  もし一人だったらと時々考える。思い切って飛び込む勇気なら持っていた筈だった。自分一人であれば夢を追って挫折したとしても、何とでもなると思っていた。だが自分は守るべき配偶者、つまり扶養家族を得る代償として、その勇気を捨て去ったのだ。  蘭子は腕の中で静かな寝息を立てる万理の、柔らかな髪を撫でながらそんな風に思うのだった。 *****  「今日は午後から学校に行くって言ってなかったっけ?」  適当にこしらえた昼食を(つつ)きながら、万理が尋ねた。蘭子は茶碗と箸を持ったまま、斜め上を見上げて考えるような仕草だ。  「今日は何曜日だっけ?」  「土曜日だけど、今日はゼミだが何だかの、何かが有るって言ってたでしょ?」  それを聞いた蘭子は、頭の上で豆電球がパッと灯ったような顔をする。  「あぁ! あれか! んん~、面倒臭いなぁ・・・」  「そんなこと言わないで、ちゃんと行きなよ。私なんか大学行きたくっても行けないんだから」  「今から高校に戻って勉強したら? 一流大学狙わなきゃ入れるよ、きっと。どうでもいい大学なんて、掃いて捨てるほど有るからさ」  出来合いの肉じゃがの中から摘み上げた人参を口に含みながら、モゴモゴと言う蘭子を万理が睨みつける。  「誰が学費出すのよ? そんな気も無いくせに・・・ それにそんな不真面目な気持ちで行ったって意味無いでしょ?」  「耳が痛いよ。私の大学生活が意味が有るとは思えないからね・・・」  本当に耳が痛いのか、蘭子はシュンとする。  「そんなこと無いよ。バンドのメンバーに出会えたのだって、蘭子が大学に行ったからでしょ? 感謝しなきゃ。神様がくれたチャンスかもしれないじゃない」  「ま、まぁね」  「いいなぁ蘭子は。私も華のキャンパスライフ送ってみたかったなぁ・・・」  「言うほどいいもんじゃないよ」と返そうと思った蘭子だったが、こと大学に関しては明らかに自分の方が恵まれている。高校すら満足に行けていない、不遇の万理を前にして言うべきではないと思い直し、グッと言葉を飲み込んだ。  「んじゃぁ私、ちょっと学校に顔出してくるよ。向こうには一・二時間しかいないと思うけど」  自分の使った茶碗と箸、湯飲みを持って立ち上がる蘭子に、万理が食事を続けながら言った。  「うん、判った。あっ、それ、適当に置いておいて。後で片付けるから。今日の晩御飯、何が食べたい?」  流しに食器を置き、その上に水道水を掛けながら蘭子が答える。  「そうねぇ・・・ 魚かな。サンマの塩焼きとか?」  「今は旬じゃないでしょ。お店に有るかどうか判らないよ」  普段、あまり料理をしない蘭子には、食材に関する意識も常識も希薄だ。  「あぁ~そっか。んじゃぁ任せるよ。何でもいい」  「はぁ~い。気を付けてね~」  「あいよ。じゃぁ行ってくる。あっ、来週金曜、またライブが決まったから」  「ほんと? 今度はどこ?」  「また渋谷。同じとこ。同じ時間」  「オッケー。いってらっしゃーい」  ローテーブルの前に正座し、湯飲みでお茶を飲みながら手を振る万理に、蘭子も手を振り返す。これが彼女たちの平和な日常だった。こんな日々がずっと続くものだと、ただ漠然と考えていた。
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