実は武士でして

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あれから僕は遅めの成長期を迎えて、短かった手足も幾分か伸びた。父が眉間に皺を寄せながら、ビールを煽りながら目一杯腕を広げていてくれたうちに。母が僕の範囲まで近づいてきて一緒に謝ってくれたうちに。木村君が僕のエラーをカバーしてくれたうちに。僕はたくさんの人の手を借りて、たくさんの人の影に隠れて、ようやく少しずつ成長してきた。恐る恐る腕を伸ばして、自分の円を築いてきた。自分だけの円を自覚してみて、初めてその広さを思い知った。所詮手の届く範囲だけ、そう思ってきた円がなんと広いことか。思わず目を瞑ったときもある。ビビッて手を引っ込めたこともある。そうやって僕もようやく成長してきたのだ。 話が大きく脱線してしまった。 本題に戻らなくては。 武士とはどんな人のことを指すのだろうか。 忠誠心、守るべきもの、高潔な心。果たしてこんなものが武士たる所以なのだろうか。 あの日の父の背中を思いだす。日光を跳ね返すような強い眼差しを思い出す。凄みを含んだ声を思い出す。 武士とはああいう大人のことを指すのではないだろうか。 自分の手の届く範囲を知っている。自分の手の届かないことが世の中にはありすぎるのを知っている。自分にできないことを知っている。無力さを知っている。遣る瀬無さを知っている。諦めを知っている。それでも、いやそれだからこそ必死で手を伸ばす。手を伸ばして、自分の力を尽くす。できないかもしれない、上手くいかないかもしれない、それでも遠くへ手を伸ばす人。できなかったこと、失敗したことに目を背けずに甘んじて受け入れる人。そこで起きたすべてに責任を取れる人。 そんな強い人を武士と呼ぶのではないだろうか。 才能でも条件でも持ち物でもない、あの強さに惜しみない敬意を込めて武士と呼ぶのではないだろうか。 僕は平凡な人間だ。嫌になるくらい平凡な人間だ。 特別なところなど何一つない。 しかし僕には腕がある。木刀もバットもとっくに手放してしまったが、この腕があるのだ。好む好まざるに関わらず、この腕を持って生まれてしまったのだ。この手の届く範囲のことにはすべて責任をとらなくてはいけない。何をしようと、しなかろうと僕の自由だが、その結果に責任を持たなくてはいけない。目を瞑るならその結果に1人で耐えなくてはいけない。作為にも不作為にも責任が生じる、父の言葉になぜか汗をかいていたのを思い出す。 7:00。赤い電車が乗客を何とかドアの内側に閉じ込めるのをホームから眺める。発車する準備は万全だ。僕と僕が充血した目で捉えてしまった違和感以外は本当に万全なのだ。 駅員が笛を鳴らすのが遠くで聞こえる。それに応えるように心臓が強く、早くなり始める。内臓であるのを忘れてしまったかのように、左の耳元で鳴き叫んでいる。まだ間に合う。僕の右手はまだ間に合う。車体が動き出すのと同時に僕は手を伸ばした。違和感の正体、黒いスーツを着た人に手を伸ばした。 右手に体重がかかる。生きている人間の体重がかかる。彼が僕の円の中にいることを実感する。僕の右手は間に合った。 右手にかかっていた体重がホームに落ちる。赤い電車は万全の状態で通り過ぎていった。僕を乗せていないことを除いては。青ざめた顔がこちらを振り返る。手首から伝わってくる鼓動は僕のと同じくらい早く、強いものだった。 「何で」 聞き取れないほどに小さな声が僕に問いかけた。その答えは話せば大変長いものになるだろう。だけどまあいいか。赤い電車は行ってしまった。どうせ今日は間に合わない、一時間の遅刻も二時間の遅刻もさして変わらないだろう。 「僕の父親の話なんですけど」 僕の話を聞いて彼は何か変わるだろうか。さっきは僕の手は彼に届いたけれど、この話が終わったら、僕がこの手を離したら、明日になったら、一週間たったら。僕のこの手は間に合わないかもしれない。彼は僕の手の及ばない範囲で事に及ぶかもしれない。そうなったら僕はそれを諦めなくてはならない。仕方ないことだと忘れなくてはならない。 ただその前に、彼が僕のこの手の中にいる限り、僕にはできることがある。平凡な僕にもできることがある。 「実は武士でして」 握った手にまた力を入れた。武士からもらった手に力を入れた。
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