百円くんの冒険

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令和元年生まれの百円くんはももこちゃんの指先から滑り落ち、ころころと坂道を転がり落ちました。百円くんは今日の朝一、ももこちゃんのお母さんが銀行から両替してきた百円玉の一つでした。そしてお母さんはももこちゃんに「これでもやしを買ってきなさい。初めてのお使いね、がんばって!」と百円くんを握らせて送り出したのです。 ももこちゃんはお金をもらったのは初めてでした。なのですっかり興奮してしまって、お母さんにしつこく言いつけられたにも関わらず、道中で我慢できずお財布の中から出してしまったのです。製造されたての百円くんは、まだ手垢にまみれておらず、きらきらととてもきれいでした。ただしきらきらしすぎていたのでしょう。日光がきらりと反射して、ももこちゃんの目を貫きました。 「あっ」とももこちゃんは目をぎゅっと閉じ、両手で目を覆い隠しました。そのとき百円くんを落としてしまったのでした。 そういうわけでこの坂道の滑走が、百円くんが初めて外の景色を見た記念すべき一瞬でした。 一瞬、というのは坂道の先には自動販売機があって、百円くんはその下に入ってしまったためです。 百円くんは三年もの月日を自動販売機の下で過ごしました。 百円くんが再び日の下へ返り咲いたのは、桜の花びらがひらりと舞い込んだ暖かい日のことです。 みすぼらしい格好をした男が、コンクリートの地面に頬を付け、百円くんに手を伸ばしました。「うぐぐぐ」と唸りながら、自転車のベルを無視しながら、真新しい制服を着た中高生に笑われながら、それでも男は薬指でこすりこすりと百円くんを引き寄せました。 「やった、これで今日明日は食い繋げるぞ…!」 男は最近会社をリストラされ、妻に離婚届を突きつけられ、なけなしの貯金や振り込まれた失業保険も「慰謝料よ」と妻に根こそぎ持っていかれたばかりなのでした。生活保護の申請もしたのですが、審査やらなんやらで二週間程度時間がかかるとのこと。 そういうわけで男は無一文でした。来月の失業保険が振り込まれるまでの間、身の回りの細々としたものを売らなければならないほど飢えて、困窮していたのでした。 男はかねてより懇意にしていたドラッグストアの食品コーナーに向かい、ワゴン品の中から五十円引きのシールが付いた「シュガースティックパン六本入り」と「小倉マーガリンパン」を買いました。元値がどちらも百円以下なので、二つとも買うことができます。 「ありがとうございましたーーーー!」 男から受け取った百円くんを、レジを打っていたアルバイトのJKはマジシャンのような手捌きでエプロンのポケットに入れました。故意です。すなわち泥棒です。 しかしJKはなんの葛藤も罪悪感もなく盗みました。というのもJKは常習犯だったからです。 小銭を所定の位置に流し入れれば自動的に受取額を算出してくれる自動レジスターとは違い、受取額を自分で数えて手入力しなければならない古いタイプのレジスターでは、過不足はよくある話です。ましてやまだ本当にお金の価値も理解していない高校生アルバイトを中心にレジを回してれば。店にとってはあるまじき自体ですが、面倒くさがり屋で気弱な店長はアルバイトたちに注意することができないでいました。 やがてJKはシフトを終え、ロッカールームで百円くんの入ったエプロンを脱ぎます。JKの次のシフトは二日後です。なのでエプロンはハンガーにかけず、鞄の中に突っ込みます。家で洗濯するのです。 JKは家に帰ってから百円くんを取って貯金箱の中に入れるつもりでした。JKの貯金箱の中身はドラッグストアからネコババした小銭しか入っていません。JKの盗みは遊ぶ金欲しさのためではなく、ただの遊び感覚なのでした。いわば貯金箱の貯金額はスコアでした。 JKは貯金箱の中に百円くんを入れて「うん」と一つ、満足そうに頷きました。それから週に数回、貯金箱には百円くんと同じ境遇の小銭たちが足されていきます。五円とか、一円とか。百円が足されるのはごく稀です。五百円は一度もありません。 ですから貯金箱の水位は遅々として上がらず、百円くんが再び日の目を浴びるまで実に五年の月日が流れました。JDになっていた元JKは、百円くんの入った貯金箱をそのままそっくり友人Xにプレゼントしました。 「少ないけど、どーぞ」 「わぁ、ありがとう!」 元JKことJDの友人XはJDと同い年ですが、JDではなくフリーターです。ファミレスでのアルバイトと趣味と実益を兼ねたパパ活で生計を立てていましたが、最近誰の種とも分からぬ子を妊娠してしまい、子を生み育てるお金も気位もないわけだから堕胎することを決意し、しかし堕胎そのものにも三十万程度のお金が必要なのでした。 ぶっちゃけ友人Xには三十万程度の貯金はありましたが彼女は、 (カンパしてもらって節約しよう) と思いつきました。 けれどもJDが渡してきたのはじゃらじゃらと小銭ばかりの貯金箱です。 (ケチ臭いなぁ。音的にも重さ的にも、絶対五百円貯金でもなさそうだし…) 友人Xは内心舌打ちをしつつも、笑顔で受け取ります。 (堕胎費用をカンパって図々しいな、こいつ。なんでさほど親しくもなかった元クラスメイトのために、身銭を切らなきゃいけないんだよ。まあこれは全部パクった金…わたしの黒歴史だし、やってやっても惜しくはない…) JDも内心うんざりしつつも、笑顔で貯金箱を渡し、「また遊ぼうね!」と社交辞令を言って去りました。 さて友人Xは実家の私室に帰り、貯金箱をハンマーで景気良く破壊します。 バリーンと大きな音がして貯金箱の破片と百円くんを初めとした小銭たちが散らばります。 その音を聞きつけた友人Xの甥っ子が「何しているの?」とやってきます。甥っ子は友人Xの姉の息子で、十二歳です。性と暴力に目覚める多感な時期な上、両親が離婚し母親に引き取られ、転校を余儀なくされた不遇の身空でした。何が言いたいかというとつまり、甥っ子は今とても精神的に不安定なのでした。 なので小銭の山(大人から見れば端金ですが、子供から見れば大金です)を見た瞬間、甥っ子はそれを奪いにかかりました。 「あ、こら!このやろう!」 小銭の山に手を突っ込む甥っ子に友人Xは怒鳴ります。たとえ端金だろうは、金は金です。友人Xは一銭たりとも手放す気はありませんでした。 しかし甥っ子は暴力に躊躇いがありませんでした。甥っ子は蹴りを繰り出します。友人Xは床にぺたりと女の子座りをしていたので、素早い回避もままならず、甥っ子の蹴りを顎に受け、後ろ向きに倒れます。 甥っ子は両手で掴めるだけ小銭を掴み、走って逃げます。小銭の山に、貯金箱の破片が混ざっていたのでしょう。甥っ子は手を破片で切り、床には血が点々と滴ります。小銭のばらばらと溢れ落ちます。が、甥っ子はお構いなしに走ります。甥っ子の目的はお金そのものよりも、お金を盗む行為だったのです。品物ではなくスリルを求めて万引きをするのと同じです。 百円くんは甥っ子が玄関から外へ飛び出した時に零れ落ちました。甥っ子は靴も履かず、走り去って行き、どこへ向かったかは神のみぞ知るです。 百円くんは生まれたての時と比べると随分と汚れました。まず三年間、日の当たらない自動販売機の下で思う存分黴びました。そして五年間貯金箱の中で、遍く手垢と細菌に塗れた小銭たちと過ごしました。 そして今度は八年間、甥っ子及び友人Xの住う家屋の玄関から門扉の間の地面というなんとも微妙な位置で過ごしました。今度は自動販売機の下と違って雨に打たれれば日光にも当たります。雪にも降られます。 自動販売機の下と違って、人目につく場所です。それなのに八年間誰にも拾われなかったのは、百円くんが地面の一部と見紛うほど汚れていたのと甥っ子及び友人X一家に、家屋の外を手入れするといった習慣がなかったからです。 百円くんが次に人の手に拾われたには八年目のこと、しかし七年目にはすでに、百円くんの存在は認知されていたのです。 気付いたのは宅配便のお兄さんでした。友人Xや友人Xの出戻りの姉がネット通販で買った品々を運ぶ宅急便のスタッフです。 お兄さんは高校生の時からこの黒猫がトレードマークの宅配便でアルバイトをしており、大学生になった今でもバイトをしている、もう何年もここらの地区の宅配を任されているベテラン半ばです。このお兄さんのことを、これからはやまとくんと呼ぶことにしましょう。 やまとくんは 「あれ、何か落ちてるなぁ」 と桜舞い散る春に気付きました。「石じゃないっぽいし」しかし大和くんはせっせと玄関へ荷物を運び、さっさとバイクへと戻ります。 「あれ、まだ落ちてるなぁ」 と蝉時雨が激しい夏に、やまとくんはまた気づきました。今度は身を屈めて、百円くんを百円玉だとしっかり認識しました。 やまとくんの脳裏に「もらっちゃおう」と悪魔の囁きが浮かびますが、やまとくんは心が天使なので、家の敷地内に落ちているものは家の敷地の人のものだろう、持ち帰るのは泥棒だ、と強い気持ちを持って欲求を抑え込みました。 「あれ、まだ落ちてるなぁ…」 しかし色付いたイチョウの木がはらりと足元に落ちてくる秋になっても百円くんは同じ場所にいました。百円くんはこの家の者の誰にも、まだ存在を認知されていないのです。やまとくんはだんだん落ち着かない気持ちになってきました。 「まだ落ちているなぁ…」 雪がふわふわ舞い降りる冬になっても、百円くんはまだいました。 「まだ落ちているぁ!」 そしてまた春になり、桜が舞い散りました。この一年間、百円くんのことばかり気にしていたやまとくんは「もういいだろう!」と開き直り、百円くんを拾い上げ、ポケットに仕舞い込みます。 しかしながらやまとくんは生粋に善人なので、やはり落とし物である百円くんを自分のものとしてしまったことに、後々になって罪悪感を募らせていきました。 せめてもの償いとして、やまとくんは百円くんをピカピカに磨き上げました。汚れを簡単に落としてから、小皿に酢を満たし、百円くんを沈めます。しばらく漬けた後、塩を振って布で汚れを落とします。 ピカピカになった百円くんを、やまとくんは募金することにしました。善は急げと言わんばかりに、やまとくんは早速近所のコンビニに出かけます。 コンビニに向かう道中、どこからか女の子の悲鳴が聞こえてきました。一体どこから聞こえたのか、やまとくんが首をめぐらすと左手の登り坂の上から女の子がだぁーーーっと駆け下りてきました。 女の子はやまとくんにぶつかりました。 「いたぁい!」 「わぁっ!大丈夫かい?!」 女の子はベソをかいていました。自分にぶつかったせいかとやまとくんは焦りましたが、どうやら違うみたいです。 「百円玉!落としちゃったの!ママからもらった!お使い!もやし買わなきゃ!」 「もやし?」 「オムレツに入れるの!」 坂道の対面には自動販売機がありました。女の子が坂道の上で百円玉を落としたのなら、自動販売機の下へ滑り落ちてしまった公算は高いと思われました。 やまとくんはふと思いつきます。 やまとくんの手には百円くんがありました。 「…ああ、それだったら拾ったよ。ほら」 やまとくんは百円玉くんを女の子に差し出しました。女の子は涙目を輝かせて、花笑う笑顔を見せました。 「ありがとう!これでもやし買える!」 「うん。ちゃんともやし買うんだよ」 「うん買う!もやし!」 女の子は陽気な足取りでスーパーへ向かいました。 おしまい
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