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(刃の眩み)第二話 繁盛
翌朝、井上は普段より一時間も早く出勤し、パーマ用の椅子の柔らかな背もたれに背中を預けてぼんやりと外を眺めていた。
開け放した入り口のドアから朝の空気が入り込んでくる。
夏とはいえ、朝の空気にはどこか人をキリリと張り詰めさせるような冷気がある。
暑がりの井上も夏の朝だけは気に入っていた。
昇りかけの陽が目の前の通りと通行人を白く照らし、これから来る暑さを思わせた。
その時、井上の景色に片山が入ってきた。
彼の無愛想な顔、口元を離れない挨拶に、井上は片山がちゃんと出勤してきてくれたことに安堵した。
身支度をする彼に、「掃除のあと、在庫点検するぞ。」と告げ、井上は奥の事務所へと入っていった。残された片山は掃除を終え、細かな備品の在庫を井上と確認した。
そして、エアコンはいつも通り二十五度にセットされ、店が開けられた。
※
(井上の手記より)
七月五日。外は夏の日差しで眩しい上、通りのアスファルトからの熱でうだるほどの暑さ。
今日、最初の客は野口さんであった。相変わらず案内の必要もなく、勝手に席に着くなり、「いつもので」ときた。
大学では古生物学を教えているらしいが、もう何十年も着ているような背広が皴だらけだ。そのくせシャツだけは目立って明るい黄色だから可笑しい。
妻と、今年小学校に入学する女の子がいるそうだが家族は大黒柱の着る物に注意しないのだろうか?
片山に彼に任せて、事務所で昨日分の会計処理をしていたが、気になりそっと様子を覗く。
刈りにかかった時間 ― 十五分少々。
相変わらず彼の刈りの的確さには驚く。
剃りにかかった時間 ― 二十三分。
昨日のマネキンに費やした時間のほぼ二倍かかっている。一番大切な部分に時間を掛けることは感心だが、掛かりすぎている。これからの片山の問題点でもあろう。
本日以上。
※
片山が井上の店に来て二週間が経ち、一月が経つと片山の噂はジワリと町中に広がっていった。
小さな町である。
同業者も少ない上、片山ほどの腕前を持つ床屋は他に無かった。
結果として井上理髪店には昔馴染みの客に加えて新規の客が徐々に増えていった。そしてどの客も一様に片山の機械のように正確な鋏さばきに驚き、その結果に満足して店を出ていった。一度片山の手にかかった彼らに他の床屋へ行く気も必要も無くなるのは当然といえた。
そして、これまで客のほとんどは男性だったこの理髪店に最大の変化― 女性客の増加 ―が起こった。
片山は町のどの美容院よりも正確に、そして女性達のどのような我儘にも黙って応えることが出来た。そのため、都市の流行に特に敏感な若い女性を中心として、片山の噂はあっという間に広まっていった。
結果として井上理髪店はごく短期間に、そして井上自身、予想もしなかった方向で、町一番の人気店になっていった。
店の繁盛していく様に経営者としての井上はもちろん嬉しかった。しかし、片山を指名してくる客がほとんど、という状況は技術者としての井上を寂しくもさせた。
そして片山が来て三ヶ月が瞬く間に過ぎていった。
※
(井上の手記より)
十月二十日。朝晩めっきり寒くなってきた。
片山には風邪を引かぬよう、体調管理をきちんとするよう十分注意してある。
宮路さんが店を畳まざるを得なくなったらしい。気の毒なことだが、もう引退する歳でもあった。頃合は良かったのだろう。
問題は長松さんと山口さんだ。
昨日の会合では私に口さえ利いてくれない。
こればかりは客の好みの問題だ、ということはお二人ともよくご存知のはずで、つい感情的になっておられるのだろう。お二人のお子さん達もまだ学生でこれからも金がかかる。それを思うと胸が痛む。
お二人に私の店に来るように提案しようと思ったが、感情的な今は何を言っても無駄であろう。
それにしても女性客が増えた。
片山は妙なことに彼女達の項を剃るのに刃を使う。女性、特に若い女性があっけらかんと『自分で剃るよりも』と喜んでいるのも私には解せないことだ。
そういえば明日、予約に馬渕さんの娘さんが入っている。物腰の落ち着いた優しい子だ。片山も年頃だし、くっついた二人にこの店を任せることを考えちゃいけない道理はなかろう。片山は相変わらず無愛想にしているが、香さんに対して少なからず好意を抱いているのは彼の態度から分かる。馬渕さんもこれほど腕の立つ男が相手なら悪く思うことはないだろう。
馬渕さん一家が越してきてちょうど三ヶ月経つ。この町を結構気に入っているようだ。
今度、片山を誘って馬渕さん一家を家に招待しよう。
本日以上。
(刃の眩み)第三話へ続く
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