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(刃の眩み)第三話 馬淵香
馬渕香は美しい娘だった。
彼女のキメ細かな白い肌は、陽に眩しいほど輝き、暗い雨の日には白い影を引いた。
長い睫毛に枠取られた細長く、まるで濡れるように輝く瞳が、小さな鼻が、そして朱の筆先に引かれたような繊細な唇が、うりざねの顔に形よく並び、その全ての造作が小ぶりで、まるで日本人形のように凹凸が少なかった。
艶っぽい、という言葉がぴったり当てはまる顔ではあったが、彼女の素朴な心根に人々は性別を越えて香に好感を持っていた。
香を初めて見たときのことを井上はよく覚えていた。
そのとき店には三人の客がおり、片山が全ての客の調髪を平行して行っていた。静かな店内に片山の乾いた鋏の音だけが響いていた。
事務所に居た井上は経理に必要な書類を取るため店に通じるドアを開け、満足気に目を閉じる客、そして相変わらず無愛想に鋏を扱う片山を一瞥し、店内に足を踏み入れようとしたその瞬間・・・、古い木枠のドアがカランと鳴った。井上はドアに目を転じた。
内外の気温差に生じた風にまかれて若い女が一歩、店に足を踏み入れるところであった。
強い風が女の薄緑のワンピースを引っ張り、つばの広い、薄桃色の帽子から溢れる漆黒の髪を女の化粧っ気のない、真っ白な顔に流した。風に吹かれた女の赤い唇からは白い歯粒がこぼれ、その切れ長の細長い目がさらに細まった。流れ来る髪を押さえつけようと持ち上げた女の手はしなやかで、服の薄緑がまるで透き通ってしまいそうなほど白かった。
瞬きに焼き付けられたような一瞬であった。
我に返った井上が声をかけると、女は透き通った声で調髪を頼んだ。その日はもう予約が一杯で三日後でないと出来ない旨を伝えると『ではその日に』と、馬渕香は店を出て行った。その後姿を井上はぼんやりと見送り、片山は一瞬のするどい目で見送った。
三日後、やって来た香の調髪を片山が担当した。
濃いビロードのようになめらかな髪であった。片山がその髪を手に取った瞬間、まるで電流を浴びたようにその肩がぴくりと動いたことを井上は見逃さなかった。
調髪が終わり、剃りのために香の髪をまとめ上げてその首筋を露わにした。そして・・・片山は息を呑んだ。
美しい皮膚であった。透き通ったその表面には薄い血管の青が微かに浮かび、まるで蝋細工のようになめらかで透明であった。その皮膚に、色の無い、柔らかなうぶ毛が香の呼吸に合わせて静かに揺れている。
そっと触れた片山の指先に香の皮膚が反応し、美しい鳥肌の波が生じた。片山の記憶の中でこれほどきれいな皮膚を持っていた人間はただ一人、片山の姉のみであった。
クリームを塗る。
刃を滑らせる。
全ての動作に片山は細心の注意を払った。この美しい皮膚にわずかな傷もつけないために・・・。
全ての工程を終えたとき、片山の中にあの『疼き』が生じていた。それは何としても抑えねばならないものであった。しかしそれは、抑えようとすればするほど膨らんでいくものであるということも片山は充分に知っていた。
香はその日以来、片山の腕にすっかり惚れ込み、月に二度は髪の手入れにやって来るようになった。片山はその都度、香の漆黒の髪を注文通り整え、そして、絹のようなその襟首に刃を当てた。
(刃の眩み)第四話へ続く
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