(刃の眩み)第五話 ある事件  

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(刃の眩み)第五話 ある事件  

(井上の手記より) 2月8日。今日、新年の挨拶に、と武田さんが幸子を連れてわざわざ顔を見せにこられた。 幸子はまた大きくなっていた。抱こうとしたら泣き叫び、武田さんにすがり付いて離れない。武田さんは『お父さんだよ』と言って宥めてくれ、なんとか私に抱かせようとしてくれたが、三歳の子に分かるわけがなかったようだ。 幸恵の墓に皆で行き、幸恵に幸子を見せた。 また一段と成長したわが子の姿に幸恵も安堵していることだろう。武田さんだけが泣いていた。 帰るとき、幸子はほっと安心したようだ。武田さんの腕に抱かれてすやすや眠っていた。 風邪を引いていた片山がようやく今日復帰。多少痩せてしまい、辛そうで、早めに返す。念のため明日もう一日休みを与える。 片山のいない日の店は静かだ。 一週間前に降った雪がまだ日陰に残っているが、空は冬晴れのいい模様だ。 今日もまた、今度は佐伯さんが話していたが、ここ最近どうもおかしな話を聞く。 どの話も人づてでだいぶ尾ひれがついているようだが、街中のペットが何匹か、おかしな殺され方をされたらしい。田中さんも被害者の一人で、犬を殺されたそうだ。小さなかわいい犬だったがかわいそうなことだ。 本日以上。      ※ 寝苦しい。 重く、熱い汗がいくらでも片山の額から流れ、枕へと染み込んでいく。 片山は目を開けた。 きちんと閉めたつもりのカーテンがわずかに開いて空が見える。 真っ青な空だ あの時のような・・・       ※ その事件は、二年前の七月のことであった。 特異な鋏使いの才で実習初日から講師陣の目を見張らせた片山は今日、剃りの研修を受けていた。 教室の大きな窓は夏の陽光をなみなみと教室中に注ぎ込んでおり、組を作った実習生一人一人の緊張と気負いで額に浮いた汗の玉を静かに照らし出していた。 実習生はそれぞれ客役と剃り役にわかれ、講師の指示の下に剃りを入れていた。片山の相手は日野という男であった。 日野と片山。二人の外見は滑稽なほど異なっていた。 小太りで背が低く、これといった特徴もなくノッペリとした顔の片山に比べ、日野はすらりと背が高く、端正な顔付きだった。二人の外見的な唯一の共通点といえば、どちらも男とは思えぬほどキメの細かい肌を持っている、ということだけであった。 二人は学内で浮き立った存在であった。というのは、どちらも極端に寡黙な性質で、他の学生に話し掛けられたとしても必要上最小にしか答えなかった。社交性という能力を著しく欠いた二人であった。 それでも人は、無表情で何を考えているのか分からなくても、穏やかな声で答える片山ならまだ我慢できた。しかし、話しかけてくる人間に対して露骨な軽蔑の色をもって対する日野は周囲の敵意をよんだ。 しかし、片山とともに、日野の床屋としての腕前も素晴らしかった。 入学当初こそ、多少の危うさを見せていたその技術も、みるみる上達していき、他の生徒をどんどん引き離していった。日野自身は十分すぎるほど自分の腕前と他の生徒の腕前との差を自覚していたし、彼の侮蔑的な態度の理由の一つもそこにあった。 その片山が唯一、内心気にしていたのが、‟講師たちの腕さえ超えている”と囁かれていた片山の才であった。 その日、日野と片山は初めて一緒に剃りの実習をした。 客役であった片山は日野の剃りのあまりの粗雑さに内心辟易していた。 日野の剃りの腕が悪いわけでは決してなかった。むしろその正確な技と、片山の髭質を見分け、その個性に合わせた刃入れは見事なものであった。しかし、その相手が片山だったことが災いした。 日野は最初からあまりにも片山を意識していた。片山に自分の技を認めさせる、ただその為だけに彼は刃を繰っていた。刃の動きが止まるような、そんなブザマな様を片山に見せるわけにはいかなかった。そのため、日野の剃りの流れは自然と力の入りすぎたものとなり、片山の顎を模範的に、が、しかし荒々しく流れていった。 日野は夢中にいた。 そしてその彼を、客としての片山は冷静に見つめていた。片山にとって、日野と自分の差はあまりに明らかであった。 日野が終わり、片山の番となった。 日野は椅子に身を横たえ、目を閉じて片山のクリームを受けた。顎に広がるクリームが火照った肌に気持ちよかった。 日野は、自分の顔を軽く支える片山の指の感触を感じた。そして次に感じたのは、何か、まるで羽毛のような物で表皮をそっと撫でられているような感覚であった。それは背筋の凍りつくような優しさと繊細さで日野の顔面を動いていった。 片山の剃りの間中、日野は片山の技術を盗むことはおろか、その「技術」を感じることすら出来なかった。自分と片山との間には圧倒的な違いがあった。 『この男は一体何者なのか?』 日野は煮えくり返るような嫉妬の中で想っていた。 気が付いたときにはもう、片山の刃はこめかみの辺りで最後の仕上げに入っていた。 片山が刃を、日野の頸筋の流れに合わせて滑らせる。 彼の指先で日野の動脈がトクトク蠢いている。実習室の窓からは雲ひとつなく息づく青空が見えた。      ※ 片山の目に映るのは網膜に冴え渡る青空である。 十才の彼には五歳年上の姉がいた。小さな硬い蕾がその胸に膨らみかけた頃、今までどこに行くにも片山を連れて行った彼女が、弟の追随を許さない秘密を持ち始めていた。 姉と弟は二年前に交通事故で父母を同時に失くしていた。 その事故から、彼らが伯父の家に引き取られることに決まるまで結局六ヶ月かかった。 見せ掛けだけの憐れみを受けていたその六ヶ月の間、そして彼らを不承不承受け入れた伯父夫婦との乾いた生活・・・。 世間は暴風のように情け容赦なく彼らの全てを叩きつけた。 十才の片山がその暴風に吹き飛ばされず、自らの命を終わらせようという衝動からかろうじて身をかわすことができたのも姉の存在があったからであった。 彼の全てを理解してくれるのは姉だけだったし、その姉にとっても片山抜きの生活なんて考えられないだろう、そう考えるたびに彼の胸は甘美なもので見たされた・・・ その姉の内には今、片山の窺い知ることのできない何物かが急激に育ち始めていた。 今まで何気なく一緒に入っていた風呂を姉は、何かと理由をつけては一人で入るようになっていた。そして風呂から出ると鏡を前に何時間も自分の姿を飽かずに見続けるのだった。 伯母の化粧品を勝手に持ち出していたことがとうとう伯母に知れ、冷ややかな小言を受けたこともあった。 姉が自分から離れていくことに片山は、まるで漆黒の闇の中に取り残されたような、息苦しいほどの寂しさを感じる一方で、周りの土臭い女達とは比べものにならないほど美しくなっていく姉の姿に見惚れてしまうのだった。 片山を置き去りにして出掛けることの多くなった姉の背中を片山はじっと見送った。去っていく安らぎの足音の恐怖に涙さえ出なかった。 暑さの苦手な片山にとってうんざりするほど長い夏の一日がようやく終わりを告げようとしていたある日、『ちょっと出掛けてくるわ』そう言い残して姉は裏山に走り去っていった。庭にひとり残された片山は夕陽の迫った空を見つめていた。広大すぎる蒼空だった。 片山は必死で耐えていた。 あれほど眩しかった陽も見る間に光を失っていくのが分かった。動かない雲が、まるで空に張り付いてしまったかのようであった。 陽がまた一段落ちていた。 風が吹いた。 その乾いた冷たさに夜を感じた。 静寂が、幼い片山にはあまりにも重すぎた。 やがて、彼は姉の後を追いかけて死に物狂いに走り出した。 裏山の頂にはうち捨てられた小さな神社があり、その神社を包み込むように四隅に祠が建てられていた。神社の周囲には巨大な銀杏や楓の木々が鬱蒼と立ち並び、その下草は自然のままに繁殖し、半壊した神社の中にまで及んでいた。まるで、巨大な緑のアメーバがゆっくり、ゆっくり神社を呑み込んでいるようなその光景が片山には恐ろしく、姉を伴って一、二度そこを訪れただけで、一人では決してそこには近づかなかった。 片山が荒々しい呼吸でそこに辿り着いたとき、自分がなぜここに来たのか見当もつかなかったが、恐ろしさは不思議と感じなかった。 ただ、姉がそこにいるに違いない、という不思議な予感だけあった。 西陽が、その赤い炎で境内を燃やしていた。 彼は境内に向かい、神社の腐り果てた賽銭箱の前に腰をすえた。 汗の流れるままに彼はまた姉を思った。 目の前で夕陽が、鮮血を迸らせながらその巨体を地に横たえていこうとしていた。 と、そのとき・・・ 彼の耳にかすかな秋蝉の旋律と共に、耳慣れた姉の、まるで走り疲れたような呼気が聞こえてきた。姉を驚かせようと息を潜めて神社の裏の空き地ににじり寄った彼は、そこに姉の、そして彼が唯一、姉以外で話すことのできた他人であり、彼の学校での担任でもあった教師の姿を見つけた。 二人は全裸であった。 二人のもつれ合ったその裸体は夕日に染められ、教師の褐色の肌の下には片山の見慣れた、あの美しい肢体が在った。 心臓が耳元で鳴り、彼の喉から塩辛い息が吐き出された。 動けなかった。 瞬きすらできなかった。 目の前で姉の白い肌が大きくなり、小さくなっていく。姉の乳房は、その滑らかな肌は、恥部の毛は、その声は、そしてその姉の心は、全て片山の物であり片山の為だけに在った、筈であった。 薄々感じていた予感が今、目の前で現実となっていた。 全てが今、彼の中で破壊されようとしていた。 姉の肌の上を、教師の愛嬌のあるその無骨な手が、片山の頭を何度もなでてくれたその同じ手が、執拗に動いていた すべての感覚、思考が無くなっていた。それはまるで、底の知れぬ暗い古井戸に落ち込んでいく浮遊感であった。 呆然とした片山が神社へと引き返す途中、草むらの中に錆だらけで捨てられていた鎌を見つけた。片山はそれを握りしめると、二人のいる方へと戻っていった。すべてが夢の中にあるように歪んでいた。 彼の手が一度だけ振られ、教師の背に刃物が入り込んだ。 血が滴り、落ち葉に降り注いだ。 教師の驚いたような瞳は片山を認め、そのままその光が完全に消え去るまで、彼を見つめ続けていた。 しばらく前から片山は音を聞いていた。ザーッというその圧倒的な音は、大雨の後に増水した川の流れの音に似ていた。 片山の瞳が姉の、まるでガラス細工のような瞳と重なった。 取り戻さねばならなかった。 彼の失ったものをもう一度取り戻さねばならなかった。 音は片山の鼓膜を叩きつけんばかりに鳴っていた。自分がいつ服を脱いだのか分からなかった。片山は姉の体を引き寄せると、勃起した自分のモノを姉の中に押し込んだ。何度も姉を突いた。その度に頭の中で悲鳴のように閃光がほとばしった。 地平線を鮮やかな真紅に染め上げていた夕日はもう、山際に薄い紅を散らすだけとなっていた。 教師の屍骸は二人で丁寧に埋葬した。 そして・・・ 秋の夜が彼らの上にしたたり落ちてきた。 教師の失踪は当初こそ大きく騒がれたが、三ヶ月もすると、まるで人々の記憶から一斉に消去されたかのように、話題に上ることがなくなっていった。 数週間後には新年の鐘が響いた。 新年の、不愉快なほど明るい戸外から片山はようやく帰宅した。 先程の、まるで嵐のように彼の身の内を荒れ狂った興奮は、家に帰るまでの人混み、そして、「あの」家に帰るという事実のためにかなり掻き消されてはしまったが、それでも熾火のように静かに、そして確実に燃えていた。 着替えの最中であろうと構わず、いつものように冷たい目を片山に落としながら買い物を言いつける伯父にさえ、今の片山は平気であった。 姉は、片山が買い物に出掛けたすぐ後に帰宅した。片山の部屋の前を通りかかった時、彼女はふと彼の部屋を覗き込んだ。部屋の中央には彼の衣類が乱雑に脱ぎ捨てられ、普段、異常なほど几帳面な片山には珍しいことで、彼がどれだけ「急かされた」のか、姉にはすぐに見当がついた。 彼女は彼の部屋に入り、まずはシャツを丁寧に畳んだ。そして次にズボンを畳もうと持ち上げたその拍子に、紙切り用の小型のカッターがポロリと落ちた。 何気なしにそのカッターを拾い上げた姉の手がビクりと一瞬震えた。カッターのカバーの端には、凝結して赤黒くなった何かが付着していた。姉には、それが何かを考えると同時に答えが浮かんでいた。 ―血液― それは、その所有者の熱と湿度をまだ帯びていた。 帰ってきた弟に、姉はためらいがちに尋ねた。 弟はまっすぐ姉を見つめ答えた。 生き物、特に犬や猫、そして鳥などを捕らえ、カッターで「丁寧に」解体している、ということ。 その一連の作業がいかに合理的に、効率的に行われているか、そして、彼がどれほどの興味と情熱を持ってその作業を行っているか、ということ。 せめて嘘でも言ってもらった方がよかった・・・ 込み上げてくる吐き気を抑えるだけで彼女には精一杯であった。 片山は姉の青ざめた顔を見た。その顔に一瞬浮かんだ恐怖と嫌悪、そして嫉妬を、姉が必死に隠したことを、片山は見逃さなかった。 それにしても・・・、今にも壊れそうな姉の顔は、はっとするほど美しかった。 姉は後悔していた。 尋ねるべきではなかったのだ。知るべきではなかったのだ。思い出すべきではなかったのだ。 あの日。彼を殺された(殺した)日。 裸の男から流れ出ていく生命を裸の自分は受けた。あの時、自分の中で何かが蠢いた。アレは何だったのか?まるで全身を強烈な電気で貫かれたような感覚。自分の全てが消え去るような、あの快感。 姉は思い出していた。思い出すまいと思えば思うほどそれは溢れ出て来た。 姉は知っていた。 片山の恍惚も感動も知っていた。 片山のしたことを羨ましいと思うか、と聞かれたとしたら、姉は絶対に否定したことだろう。 しかし・・・、なぜ? なぜ思うまま、快楽に身を委ねてはいけないのか? 姉はその日、何も言わずに片山の部屋を出た。 次の日の朝、伯母が姉の死体を見つけた。姉は自分の部屋で首を括っていた。遺書はなかった。 それが七年前、片山が十一才の時だった・・・ (刃の眩み)第六話へ続く
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