(刃の眩み)第一話 片山

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(刃の眩み)第一話 片山

 最近、井上理髪店に新人が入った。 『卒業はとある有名理容学校。その上、卒業式では校長から直々に表彰されるほど成績がよかった』 これが、店主である井上が新人を客に紹介するときの口上であった。 もちろん井上は彼の「刈り」の腕前を実際に目の当たりにしたうえで雇ったわけではあるが、その「校長直々の表彰」云々という話はあくまで、井上が井上自身の鑑識眼の正しさを自慢するため話に尾鰭を付けた、というのが真実らしい。      ※    その新人(片山というのが彼の名である)は無口で落ち着いた人物であった。  彼のずんぐりとした体から人々は当初、何となく頼りなげな印象を受けたようだ。しかし、彼に漂う不思議な風格(喩えると僧侶のそれに近かった、という)、そして職人としての腕の確かさが彼の印象を逆転させたという。 『片山はまさに井上の店の若旦那、といった感じだったな』 『穏やかな人だったねぇ』 『ほんと、職人って感じでよ』 というのが当時の事件を振り返った人々に共通した意見であったのも彼の持つその独特の雰囲気に拠ったもののようである。        ※ (井上の手記より) 七月三日午前七時、片山初出勤。 さっぱりとした身なり、清潔感そうなその様にまず満足する。  店の歴史や私の将来の夢など、床屋の技術的な話と含めて説明。かしこまって聴いており、いたく感心した模様。学校では学べぬ事柄ゆえ私もつい力が入ってしまった。 その後、開店まで用具の位置や使用後の処理を細かく説明。 いつも通り十時に開店する。  午後、二、三人の客が来たが、私一人で処理。片山は補助。一度の説明でほぼ全体の流れはつかめたらしい。 二時ごろ、めったに調髪に来ない林さん来店。片山に任せてみる。 なるほど、私とは違いきちんと学校を出ただけのことはあって、鋏の扱いに多少の甘さは残るが、経験しだいで十分この世界で通用するものがある。 体調が悪い、とのことで剃りに移る前に私と変わったが、彼の「剃り」の腕も見てみたく思うほどの見事な鋏の使い方であった。 まだまだ学生の気分が抜けず、プロの気概は感じられないがそのうち身に付くことだろう。             本日以上。      ※ 実際、片山はうまかった。それどころか、彼の鋏を使う手さばきは熟練した井上をさえしのいでいたといえた。 普段は毛髪に無頓着な常連の林でさえ、鏡を片手にしきりと頭部をガラスに写しこんではその鮮やかな手並みにうなっていたほどであった。それを知ってか知らずか片山は林の世辞にも床を掃きながらぼそりと礼を返しただけであった。 片山赴任から二日目の閉店後、井上は片山にマネキンの剃りを命じた。 予想通り・・・ いや、それどころか稼業二〇年の井上でさえ目を疑うほど、片山の剃りは見事なものであった。 髭は毛髪同様、その所有者の個性を表す。太さ、生え具合、色、一人として同じ毛並みの者はいない。床屋の剃りの難しさはそこにある。床屋は客の皮膚の質、流れ、毛質を最初に刃を当てた時点である程度計ることが出来なければならない。そのため調髪とはまた違う、技術や経験だけではない何かが必要であった。 今、井上の前で刃を操る片山は本物の天才であった。 マネキンのあごに手をかけた彼は無造作ともいえる動作であごの根元に刃を入れた。あごの根元から下唇への動きは下顎の生体学的な流れを熟知した医者のごとく鮮やかであった。鼻から上唇への正確な流れはまるで、三〇年も同じ動作を繰り返し続けたベテランのようであり、毛並みに忠実であった。皮膚との接触を最低限に抑えた手さばきは軽やかで、最も気の使う部位である首筋の動脈付近を流れた刃は滑らかに側頭に移り、次々と仕事をこなしていった。 井上が今まで見てきたどの剃り手よりも片山はうまかった。 刈りならある程度の経験が左右する。『まあ、片山はそれもすごかったが・・・』井上は思った。 しかし、剃りはちがう。 客のプライベートな部分を扱うことがうまい、ということがその床屋の腕の良し悪しの何よりの判断基準である。そしてそのことを身に染みて知っている井上にとって、片山が今見せている剃りは客の要求に十分以上に応えるものであった。 井上はふと、片山の顔を見た。 静かな表情であった。しかし、その細い瞳の奥に何かがあった。 何か? まるで何かに酔っているような・・・ そのとき、井上は片山の口の端が微かに持ち上がっていることに気づいた。見る者を凍りつかせるような薄い笑みが井上の見つめる片山の半面に張り付いていた。 片山が剃り終わり、井上の顔を見上げた。その顔からあの笑みは消えていた。 ― 気のせいだったか? ― 井上は片山の労をねぎらうと、事務所に向かう足でそう考え、事務所に入るともうそのことを忘れていた。 ― とにかく、並みの新人じゃないことは確かだ ― (刃の眩み)第二話へ続く
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