いつもの通り道で

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◇ 付喪神にとって退屈極まりない時間は過ぎ、漸く夜になった。 一層、持ち主『咲子』の元に帰りたい想いが募る。 付喪神である簪の最初の持ち主「紅緒」は、売れない女優だった。 彼女は特別美人という訳でもなく、かと言って秀でた演技力がある訳でもなかったが、誰もが守ってあげたくなるような、気弱そうで控えめな可愛らしさがあった。 そして彼女には、性格や日々の丁寧な暮らしぶりがもたらしたであろう上品さもあった。 年頃になり、紅緒は道ならぬ恋をした。 相手は演劇の脚本家。 紅緒は彼と付き合うことで女優として名を馳せようとした訳ではない。 その男の才能と彼から醸し出される独特の色気に心底、惚れていたのだ。 男には妻子があり、他に数人、紅緒のような女優の妾がいた。 ただ彼にとって紅緒は特別な存在で、他の女達に向けられたものとは違う、本気に近い想いがあったのだという。 その為か、紅緒が赤ん坊をお腹に宿したと分かった時も、自分の子供だと口外しないことを条件に認知をし、それなりの額の金銭も援助し続けた。 そして、その脚本家が紅緒と別れる時に贈ったのが、椿の細工が施された、このバチ型の簪だった。 それから、紅緒が人生を全うし、次に簪を形見として譲り受けたのが、紅緒の一人息子、(あきら)だった。 朗は、女手一つで自分を育ててくれた母を心から愛し、尊敬していた。 母一人、子一人で苦労も何かと多かったが、その分、今度は自分が父となり、理想の家庭を築こうと努力した。 彼は見事にその理想を叶え、明るくて穏やかな妻との間に一人娘の咲子(さきこ)を儲けた。 そして時が経ち、朗が亡くなると、今度は娘である咲子が簪をもらい受けることになった。
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