プロローグ

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 その朝、楊家(ようけ)の門は不用心に押し開かれた。  上級官吏の屋敷の厳重さとは異質の雰囲気を、それ一つで二人の若い――少年といってもいい――武官はひしひしと感じた。扉に触れた瞬間、()侑生(ゆうせい)の手がためらうかのように動きを止めた。だがそれは一瞬のことで、李侑生と、続いて(えん)仁威(じんい)が門の中へと入っていった。  楊家の庭園には幾多の朝顔が花開き、青紫の花弁が池の水面に色良く映えていた。ただ、それらの半数以上が無残にも踏みしめられ、土にまみれ、半ば地面に埋もれていた。庭園から屋敷への最短距離となる方向には多数の成人男性の足跡が無遠慮に連なっており、ここが襲撃されたのは間違いのない事実だと二人は確信した。少年達は駆けるようにその足跡を追った。  そして屋敷の内部に入った瞬間、目の前に広がった光景を、そののち二人は永遠に記憶することとなる。  ――時がたった今でも鮮明に思い出せる。  切り刻まれ、二度と動くことのない幾多の体。  まだ新しい濃厚な血の匂い。  普通に考えれば、そこはまるで地獄のようだった。だが、いたるところが鮮血にまみれていても、窓から差し込む一遍の陽光によって、静謐でありながらも柔らかく暖かな空気をまとっていたのである。  新人武官の二人はこれまで一体の死人すら見たことがなかった。だが二人はここに人ならぬ者、荘厳な存在の気配を確かに感じた。この悲惨の極みである場所が、天からの恵みである陽光一つによって次第に清められていく場に立ち会っているように錯覚したのだ。それほどまでに、この場が形作る空気は二人の五感と心身を圧倒したのである。  だから二人が感じる恐れは厳かさゆえのものだった。  部屋を彷徨う妖物が払しょくされていく。  血に濡れた魂が全て浄化されていく。  何かに祈りを捧げたくなるような恍惚――。  二人の瞳から涙が際限なく溢れだした。  思いきり泣くことができればどんなに楽になるだろうか。  でもできない。  二人にはそんな権利はなかったのである。  それでもこみ上げてくるもので喉が鳴った。  ――言葉にならない。  部屋の隅に唯一の生存者、幼い少女を見つけたのはどちらが先だったのかは分からない。ただ、その少女は同じ陽光を身に浴びていながらも、その恩恵を享受していない唯一の存在だった。焦点の合わない目で、何の感情も浮かべることもなく、ただ一人遠いどこかを見ていた。 (この少女が(よう)副使(ふくし)の家族か?) 「蔡蘭(さいらん)……? それとも珪己(けいき)……?」  心で思ったその一言が口から出たことに、発した仁威自身が驚いた。  呼びかけに、少女の青白く丸い頬がぴくりと動いた。ゆっくりと二人に顔を向けるや、その光の宿らない瞳から一筋の涙が零れ落ちた。 「父、様……?」  少女の囁きに真っ先に動いたのは――侑生だった。  立ちつくす少女に駆け寄り侑生が抱きしめた途端、少女の閉じられた瞳から新たな涙がこぼれ落ちた。そして少女は力尽きたかのように、侑生の腕の中で気を失って崩れ落ちた。  かたく結んだ侑生の口からやがて嗚咽が漏れだした。だが侑生は涙を止めることもままならず、ただずっと少女を抱きしめていた。 「ごめん、俺が……。俺のせいで……ごめんね……」  謝罪を始めた友、そして友の腕に抱かれる少女を、この時、仁威は茫然と見やることしかできなかった。室内を白く染める朝日は、三人が自覚したばかりの大罪を溶かすことはなかった。  *  この生ける三人はその後異なる道を選択した。根源は同じ罪だとしても償い方は無数にあった。そして三人は知らずして同じ挽歌を唱え続けた。死者を悼む歌、赦しを乞うための歌、そんな誰にも聴こえない無音の歌を――。  三人の運命が再び交錯し密接に絡み合うことになるのは、それから八年後、貴青(きせい)十年のことである。
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