159人が本棚に入れています
本棚に追加
Prologue
一人の狩人があった。その狩人、腕は良く一矢でどのような獣をも仕留めることが出来た。体躯が狩人の数倍を誇る硬い皮を持つ猪であろうと、頭蓋の骨が分厚く矢を当てても弾かれる程の大熊であろうと仕留めることが出来る剛弓がそれを成せるのであった。
その腕は国中に轟くほどで、王より直々に狩りの依頼をされることも珍しくはなかった。
その狩人に待望の第一子が生まれた。父親となった狩人は狩りにも気合が入っていた。我が子を包むためのおくるみに使う毛皮を手に入れようと、いつもは入らない森の奥深くへと入り込んだ。そして、森の深淵にある池の畔にて見つけたのは美しい青鹿、頭には三日月を思わせる漆黒の夜空を貫くような鋭い角を携え、その全身は蒼穹を思わせる程に輝く青い体毛に覆われ、白い斑点も真白き無垢なる雲のようであった。
美しい毛皮だ。狩人は口角をニヤリと上げた。そして、弓を構えて鏃を青鹿に向けた。青鹿は狩人の気配には気づかずに水を一口一口と飲み喉を潤していく。
気づくなよ…… 狩人はそう考えながらピンと張られた弦をギリギリと引いた。その瞬間、青鹿は倒していた耳をピンと上げ、水につけていた口先を首ごと上げ、首を左右に動かしながら辺りをキョロキョロと見回した。あいつは弦を引く音すら聞こえるのか…… 耳のいいやつだ。狩人は一旦弓の弦を音をさせずに静かに緩めて戻した。
なんだ、気のせいか。青鹿はこう言いたげに再び水を飲みにかかった。
とりあえず逃がすことは避けられた。狩人は安堵しほっと一息をついた。
あんなに耳の鋭いやつは初めてだ…… 弓も引かせてくれない。ここは見に徹し、機会を待つことにしよう。狩人は池の畔の茂みで青鹿を注視しながら自分の気配を殺し続ける。
青鹿が首を上げた。水を飲み終え喉が十分に潤ったのだろうか。くるりと踵を返してぴょんぴょんと左右に大きくステップを踏むように跳ねて行った。このままでは逃げられてしまう。幸い、逃亡を目的にしない単なる移動が目的なのか、動きは遅い。狩人が茂みに隠れながらでも追いかけられる程度であった。くくり罠で動きを止めることが出来れば早い話なのだが、生憎とここは普段の狩場から離れた森の深淵、自らの領域ではない。くくり罠を仕掛けている筈もない。一応、腰の革ベルトにくくり罠の予備は用意してあるが、木の配置、茂みの配置も全てが初見の森の深淵にて効率の良い仕掛け方がわからない状態では仕掛けたところで無駄にくくり罠を消費するだけだ。
狩人が見に徹すること数刻…… 青鹿の動きが止まった。池より離れた小高い丘の上に不自然に積んで置かれた枝葉、その枝葉の山には不自然に凹みが一つ、その凹みはぷっくりと膨れた青鹿の腹を収めるのに丁度いい大きさだった。
この場所こそが青鹿の塒である。小高い丘の回りは木々に囲まれ、見通しが悪い。だが、丘の回りから音が聞こえてくる。地より接近する狼や熊の足音や息遣いや嘶き、蒼穹を破る鳥の囀りや羽ばたき…… 気配が音となり、危険を察知するには絶好の場所であった。
青鹿は森の保護色とは程遠く、空色の青い毛皮に身を包んでいる。それ故に人や獣に狙われる率が高いだろう、そんな彼らが懸命に編み出した危険を察知する塒。狩人は「よく考えたものだな」と、感心しながら自らの体臭が青鹿へと届かない風下の茂みへと潜り込み、見に徹するのであった。
最初のコメントを投稿しよう!