Prologue

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 青鹿が(ねぐら)に伏せて数刻後、いよいよその時が来た。青鹿が首を何度も何度も上げ下げを繰り返しているのだ。そして、大口を開けて大欠伸を何度もするのである。それを見た狩人は大欠伸が伝染(うつ)りそうになるが、口を抑えて必死に堪えた。場は静寂に包まれている。それを確認した青鹿は安堵したように首をゆっくりと下ろし、(ねぐら)に積まれた柔らかい枝の上にそっと顎を付け、ゆっくりと双眸を閉じるに至るのであった。  青鹿が寝に入ったことを確認した狩人は音を立てず、ゆっくりゆっくりと弓を構えた。弦を引く音を立てないようにゆっくりゆっくりと弦を引きにかかる。心臓のある首の付根周辺に鏃を向け、風の流れと弓の僅かな軌道を考えた位置に鏃をずらして調整にかかる。  この瞬間が一番緊張する…… あれがただの鹿であれば足を射ち、自由を奪ってから仕留めるものだが、相手はこれまでに見たことがないような美しく青い毛色の珍妙ながらに神秘性すらも感じる鹿。あの毛並みをなるべく傷つけることなく仕留めたいと狩人は考えていた。そうなれば、解体の際の起点となる心臓からの傷一つで仕留めるのが定石。 そのためには心臓を一矢で射抜かなければならないのであった。  狩人は意を決して矢を放った。鋭い鉄の鏃の付いた矢が空を切りながら青鹿の心臓へと向かって飛んでいく。空を切り裂く音を聞いた青鹿が耳と首をピンと立てて夢の世界から帰還を果たすが、その数秒後には肺と心臓を同時に撃ち抜かれて絶命し、極楽浄土(エリシオン)の世界へと旅立って逝った。 青鹿はその外見とは似合わぬ蝿の羽音に似た鹿鳴(ろくめい)の断末魔を上げながら(ねぐら)の上に力なく倒れ込んだ。 「仕留めたか」 狩人は弓を仕舞い、腰の帳帯(ベルト)に携えていた解体用のナイフを取り出した。そして、絶命した青鹿の元へと近づき口に手を当てて息が切れていることを確認し、また生暖かい血がたらぁりと垂れる矢を引き抜き、その傷口にナイフを深く刺して血抜きを行った。傷口から心臓に深く突き刺さったナイフを伝って大量の血が流れる。青鹿の(ねぐら)が血に染まり、錆びた鉄の臭いと同じ血の臭いが辺りに広がって行く。  この後、狩人は粛々と青鹿の解体を進めていった。生皮を剥ぎ、食べられそうな足の肉や、薬になりそうな内臓を紙に包んで頭陀袋の中に入れた。 そして、生皮を軽く水で洗いなめし革にする下準備をしようと考えた狩人は近くにある湖へと行くことにした。青鹿が喉を潤していた湖である。
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