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陽花くんの肩とぶつかりそうな距離。夕方の叩きつけるような酷い雨に比べると幾分マシとはいえ、こんな雨の中隣からふわっと柔軟剤のいい香りがした。おいおい、この子マジか――。
「あ! 俺持ちましょうか? 傘!」
名案だと言わんばかりのキラキラとした表情で、両手を差し出している。今まで気が付かなかったが、俺に差し出された手を見てみると、男性のものだとは、にわかに信じがたいほど骨ばっておらず、綺麗な指をしていた。
可愛いな――……、本当……。
体の中心から手足の爪の先まで、熱のある何かがじわじわと広がってくる。それがなんなのかはさっぱりわからないが、悪い気はしなかった。楽しく酒を飲んで、酔ってふわふわとしている感覚が一番近いかもしれない。
今日初めて会って、初めて言葉を交わしたのに、俺の知らない俺をズルズルと簡単に引きづり出してくれる。さっきは小さな子供相手にビクビクしていたくせに……。
「あっはははははは!」
俺は涙が出るほど笑った。こんなに笑ったのはいつぶりだろう? ……いや、もしかしたら初めてかもしれない。申し訳程度の街燈の光と、涙で揺れる視界の中で、今陽花くんがどんな顔をしているのか想像する。俺がどうして笑っているのか分からず、困った顔をしているのだろう。しかし、かくいう自分も何故こんなに可笑しいのか、分からないのだ。陽花くんの顔を見たい……、そう思い、笑い涙を自分の袖口で拭く。ほらね、案の定困った顔を――……。
陽花くんも笑っていた。どうやら俺につられてしまったみたいだ。
その後、バランスでも崩したのか、不意に俺の腕にぶつかる。
「あ……、ごめんなさい」
笑うのを止めて、俺から少し離れてしまった。
すると再度、仄かに柔軟剤の香りがした。
「いいよ、全然。……そんな離れたら濡れちゃうよ」
陽花くんの方に傘を少し傾けると、何を思ったのか俺の方にグイッと寄って来た。今度は腕と腕がピッタリとくっつくくらい。
意図的にそうしているのなら、相当なたらしと見るが、陽花くんならどのみち顔に出そうだ。
バイト先を出てからもうすぐ10分が経つ。いつもなら家に着いている頃だ。早く駅に着いてしまわないよう、出来るだけゆっくり歩いていることに陽花くんは気付いているのだろうか。バイト中のあの10分は永遠と感じさせるほど長かったのに、今この10分は一瞬の出来事だ。
ブウウン――、と音を立てて向かってくる車のヘッドライトに照らされる。視線を横に移すと、たくさんの銀色のピアスが各々一斉に反射していた。俺はそんなにたくさん開けようとは思わないが、陽花くんのそれはとても綺麗に見えた。
触ってみたい――……。
いきなりこんなことを言っても困らせるだけだ。陽花くんを困らせたくはない。でも、少しだけなら――。
「ひ……!」
爪の先でなぞるように左耳朶に触れると、聞いたことの無いような甲高い声がした。
びっくりして足を止める。
「あ、……あっは! ごめんごめん」
いきなり触れられたことに驚いたのか、自分の出した声が恥ずかしかったのか理由は定かでは無いが、陽花くんは自分の右耳に両手を当てており、顔が熱を帯びて、ほんのり赤くなっている気がする。
あー駄目だ、この子目茶苦茶可愛い――。
先程自分の中にじわじわと広がった熱い何かが、行き場を無くして弾けてしまいそうだ。
「ねぇ陽花くん、彼女いるでしょ。すっごいモテそう。」
「え、何で……、それ本気で言ってます?」
「うん」
再び2人で歩き出す。駅まではあと数分で着いてしまうだろう。後で連絡先だけでも聞いておこう。
「ふっ……、人生初っすよ、そんなん言われたの……てか俺…………」
憂いを感じさせるような顔だった。陽花くんはこんな顔もするんだな。
ただ途中から雨音のせいでよく聞き取れなかった。
「え? ごめん……途中からよく聞こえな……」
最後のほうがあまり聞き取れなかったため、聞き返そうと思った刹那、バケツをひっくり返したような豪雨と、傘を殺す勢いの突風に襲われる。
最悪だ……、濡らさないために一緒に帰ったのに、俺が長く引き留めたせいで結局陽花くんをビシャビシャに濡らしてしまった。
陽花くんは強風と豪雨のせいで目を瞑って動けなくなってしまっている。
「……日雅さん!」
陽花くんが俺の名前を呼んだ……。手探りで俺を探しているらしい。そんなことしなくても、俺はずっと傍にいるのに……。
「陽花くん大丈夫、とりあえず急ごう」
陽花くんの肩を抱き、俺の家へと急ぐ。とりあえず家に着いたらまず陽花くんをお風呂に入れよう。俺の独断で勝手なことをして、陽花くんはかなり戸惑うだろう。でも自分のせいで風邪を引かせてしまうのだけは、本当に洒落にならない。
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