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◇
「なにこれ、美味しい」
カットレモンをグラスの淵に引っ掛けたロングカクテルは、その酸味を邪魔しない程よいお酒の風味を感じさせた。
リタ君の作ってくれたジン・フィズは、お酒慣れしていない私の好みに合わせて、レモンの味が分かるものにしてくれていた。
「ありがとうございます」
リタ君はカウンターの中で、シェイカーの手入れをしながら微笑んだ。
夕方と同じスツールに座り、私はそんなリタ君の向こう側でスポットライトに照らされている文庫本の並んだ酒棚を、ぼうっと見つめている。
夕方、あの後私は洋ちゃんのアパートに戻った。おかえり。いつもの和やかな笑顔で私を迎えてくれた洋ちゃんだったが、何となく気まずくて、私は「ただいま」も言えなかった。
彼への怒りが残っていた訳ではない。
余裕が無くて自分勝手にひとり喚いていた私自身が恥ずかしかったのだ。
素直になれないまま、私は窓際に仮置きされていたソファに座り、リタ君に借りた『「あと5分待って」』を読んだ。
洋ちゃんはそんな私を横目に、どうやら大きな段ボール箱からようやく荷解きを始めたようだった。
小説を読み終えた時、窓の外はもう暗くなっていた。
私の心の中に、ゆったりとした不思議な時間が流れていた。物語の中の二人を想い、自分と洋ちゃんを比べていた。
汗をかきながら荷物と悪戦苦闘している洋ちゃんを、あと5分だけ見つめていたいと思った。
「琴子、今日は東京に帰るつもりだったよね?」
出し抜けに私に投げかけられた洋ちゃんのその問い掛けがあるまで、今日東京に帰らなければならなかった事を私は完全に忘れていた。
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