第二話 名前なんて

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 次の日、夜のバータイムが始まる少し前に、彼女は短編堂に来店した。借りていた本を返しに来ただけだ、と言う彼女に私は声をかけ、カウンター席の私の隣りに促した。 「だから、私はお水しか飲めないのよ」  少し困った顔の彼女に、今日も私達はこう伝える。 「短編小説はいかがですか?」  ◇  アームライトが照らす場所に、「ビオトープ」が置かれる。リタ君がそれを手に取って丁寧に解説する姿を、彼女は微笑みながら眺めている。そうなの。へえ。素敵ね。彼女の様々な相槌に、リタ君は嬉しそうに余談を追加して話して聞かせた。  これはまるで、孫の自慢話に目を細める縁側の風景じゃないか。  私は可笑しくなって、いつもよりも饒舌なリタ君をからかった。少しムキに反論しながらバータイムの準備に移った彼を、彼女は穏やかに眺めていた。  ああ。そうか。  こんな形で、いいんだ。この二人は。  風景のように馴染んで、特別でない事が大切で。バーテンと客という姿が、今のこの二人なんだ。  そう二人を観察しながら、私はもう冷めているレモンティーを飲み干す。バータイムに、今日は一杯だけ飲みたい。リタ君にそう伝えて、カップとコースター下げてもらった。  カウンターに向き直したリタ君が、不意に彼女にこう呟いた。 「お姉さん、僕、以前に貴女とどこかで……いや、勘違いですよね」  鈍感なのか鋭いのか、匂わせている訳ではないだろうけど。リタ君のそんな挙動不審なところは初めて見たけれど、少しだけ増した彼女の嬉しそうな表情に、私は心の中で大きく頷く。  そうだよ、リタ君。  そうなんだよ? よかったね。  
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