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照明が切り替わりバータイムが始まった時、彼女がリタ君にこう申し出た。
「昨日も水と小説だけ戴いて、またお代が無しじゃ申し訳ないわ。私から琴子さんと、それからバーテンさんに、一杯づつ奢らせてくださらない?」
オーダーもお任せと確認したリタ君は、珍しく一杯目からショートカクテルグラスを準備しテキーラボトルと瓶をいくつか並べる。
「では、今日に合ったお酒を」
たちまちのうちにコースターの上に乗せられたカクテルは、テキーラとライムの香りと、白い塩の縁取りが特徴的なものだった。
「マルガリータです」
どうして、これを? 彼女がそう訊くと、リタ君は私と彼女を交互に見ながら、答えてくれた。子供みたいに目を輝かせて、自慢するように得意げに。
「このカクテル、前は『デイジー』っていう名前のウィスキー系のお酒だったんです。それをね、禁酒法時代のバーテンが外国でデイジーを作ろうとして、勘違いしてテキーラで作っちゃって。それが意外に美味しくて」
リタ君がグラスの首を持ち上げて、私達の前に掲げる。彼女も水の入ったコップを持って同じように乾杯の準備をする。二人に見つめられて、私も慌ててそれを真似た。
「でもね、そのバーテン、絶対に勘違いじゃないと僕は踏んでる。知ってたんですよ、きっと。美味しいって。知ってたんです」
ショートカクテルグラスを軽く持ち上げ、アームライトの光にかざすと、目を潤ませたリタ君がマルガリータ越しに歪んで見えた。小さな声でチアーズと呟いて、私達がグラスに口を付けるのを見ながら彼がこう溢す。
「そのバーテンにとって、その飲み物はデイジーだった。けれど、違うお酒だからと、仕方なくマルガリータと名付けたんです。実に安直に、デイジー、つまりヒナギクのスペイン語の意味の『マルガリータ』と。……要するに……」
リタ君には、それでもう限界だった。カウンターの中で後ろを向いて、説明の最後は聞き取れるかどうかもギリギリの声量で、彼女に伝えたんだ。
「名前なんて。そんなのどうでもいいんだよ」
《第二話・名前なんて》
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