第一話 短編小説はそっと寄り添う

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 こんな姿では電車にも乗れない。  東京に帰るのなら、少なくとも服くらいはちゃんと着替えてこよう。洋ちゃんも少しは反省してキビキビと部屋を片付けているかもしれないし。  言い訳と謝罪を聞きに行く口実で、部屋に戻ろうか。  来た坂道を下ろうと踵を返した時、足元がビーチサンダルだった事を思い出した。 「……もうっ!」  自分に腹が立って、そんな言葉が口をつく。  二十歳にもなって、恋人の性格に振り回されるなんて。  元来私は気分屋で、喜怒哀楽が激しい方だと思う。楽しい時は思いっきりはしゃいで、悲しい時は底まで落ちる。  そんな私を近くでおっとり見守ってくれる洋ちゃんのおかげで、少しは感情のコントロールができる大人になれたかと思っていた。  それがなんだ。  恋人の就職で遠距離恋愛が始まるというのに、その恋人が無責任に見えて、まるで私との事を考えてくれていないように勝手に思って。  抑えきれず頭に血がのぼり、着の身着のまま部屋を飛び出してくるなんて。不安定な子供のままじゃないか。  来た道をとぼとぼ引き返す。  今度は下り坂の筈なのに、私は来る時より足を運べない。  はあ。不安だ。  明日からの、洋ちゃんのいない東京の生活が。  斜めに傾きはじめた太陽が、坂道に私の影を作り出した。四時を少し過ぎて、日の光も少し赤みを増す。  投影された自分の影を眺めて、少し恥ずかしくなった。ぼさぼさと乱れた髪の毛が、束で飛び出ている。  私は立ち止まり、後頭部の結えを荒く解いた。  首を振り手櫛で髪を直した時、すぐ横の店舗が目に入った。黒っぽいシックな壁。お洒落そうな造りなのに歩道から見える窓は小さめで、街の中での存在感はあまり示せていない。  建物の背があまり高くないのは、少しだけ潜るような半地下の入り口になっているからだろう。  壁にはメニューらしき貼り紙が貼られていて、私の目はその中に「レモンティー」「レモンパイ」「レモンシャーベット」がある事を捉えていた。
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