女性技師リィン

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女性技師リィン

最初で最後の祖母からの手紙。それは流れるような筆記体で書かれていた。読まずともそっと指を触れれば熱気と湿気がよみがえる。蝉と堆肥とボウルいっぱいのかき氷がごちゃ混ぜになった8月の第3週。チリンチリンガチチチチと風鈴が羽ばたく。雨戸を固く閉ざして蝋燭の炎に好奇心を揺らした思い出いっぱいの一軒家。 地下茎の乾いた匂いと生臭い潮風は二十光年先で吹いている。不可逆性の向こうに想像の手をのばそうとしているとオルゴールがわらべ歌を奏ではじめる。 やめてくれ。胸が熱くなって、いっぱいになって、弾けてしまうから。 そんなことお構いなしに祖母の気遣いが語られる。 ”遠いところで活躍している私の大切でかわいくてちょっぴり人様に自慢できるリィン技師長へ…”で始まる優しい声かけ。 元気でいますか、なんて空々しい挨拶はしない。重力加速度と量子圧がせめぎ合う機関室の苦労話をちゃんと聞いてくれる関係にどんな遠慮があろうか。祖母は私の喜ぶものをちゃんと運んでくれる。 裏の畑に自生するひまわり。階段の手すりに絡みついて小さなラッパを咲かせるアサガオ。みずみずしい朝が乾いた心を潤してくれる。 「ありがとう。リィンは元気になったよ!」 力づよい感謝はもう届かない。生暖かい水滴が鼻腔を伝う。同時に全身の空気が抜けていく。 活動停止した祖父の時計。そんな歌詞が脳裏をよぎる。 わかっている。わかっているのだけど反射的に触れてしまうのだ。 あるはずのない静電気を警戒して指先がこわばる。 便箋の上空に燐光が凝縮した。蛍の群れが小さな輝きを慣れ親しんだ青空に変える。 ふわふわしたホログラムをそっとつつくとミニチュアサイズの縁側が拡大して辛気臭くなった。 介護ベッドに透明なチューブで縛り付けられた老女。そんな姿を孫娘にあえて晒す人はいないだろう。 表情は穏やかだ。そして視線カーソルを操って合成音声を組み立てている。最近は剪定ドローンの操縦を学んだそうだ。 オンライン講習の成果は裏庭の花園にあらわれている。 「リィン。張りつめなくていいんだよ。泣きたいときには泣いて、怒りたいときにはプンプン怒って、それが私の知ってるリィンだから…」 こうやって祖母はいつも肯定してくれる。なのにどうして私は台無しにするのだろう。 今はもうない虚空の彼方から届いた想い。そんな形骸化した郷愁に向き合って何が得られるというのだろう。 ”リィンが大好きなお庭のひまわり。いつでも帰っておいで” ドローンは律儀に今も手入れをしているのだろうか。 押しつぶすような優しさにわたしは甘えられないでいる。 心に住み着いた大切な人は歳月とともに色褪せて乳白色の真珠になる、というが実際のところは産業廃棄物だ。セピア色の記憶も心の主と一緒に老いる。 正直なところ祖母の亡霊から解放されたい。 試行超長距離移民船団パッセンジャーズは地球から四七光年の空間を準光速で飛んでいる。急旋回したところで減速に十年そして再加速に二四年。秋瀬諸島は上昇海面に沈んでいる。 そんな閉塞を打破する光を求めて旗艦パッセンジャーに志願した。ディーダラス・ドライブが毎秒一千個の反物質ペレットを燃やして向かう先には青くて緑豊かな系外惑星がある。あと三光年。たった三光年。 新天地の玄関先でトラブルが起こった。私の出番だ。急速解凍されツルリと抑制された頭にウィッグをかぶり立体印刷したビキニとミニスカートを同時に履く。スウェットを羽織った時にパンドラの箱が開いた。 撫子がアームをにゅっと差し出した。 「何でこんな時に親族の手紙? 三乗かつ三連三重冗長の予備冷却塔が全停止してるのよ。核融合反応が安定しないままだと二日以内に五百人が火だるまになる」 しかし撫子は最優先事項だとしつこい。本人確認書類に量子暗号で署名されている。開封と同時に量子ペアが壊れ差出人に通知される。 「送信日は四十五年前よね。確認を要求する人間じゃないわね。法人か何か?」 落ち着いた合成音で「信書の秘密は不可侵です」 プリントアウトは白紙だ。私の肉筆サインがスキャンされて量子鍵を解く。受信ファイルの表題も要約も厳重に暗号化されている。ここまで厳重に秘匿してなおかつ速達(光速を超えて無限の距離を瞬時に短絡する)しなければならない書留にどんな事情があるというのか。差出人の名義さえも機密保護されていて不明だ。記憶の糸を辿って乏しい交友録を棚卸する。心当たりはない。ダメもとで撫子に照会してみるが判らない、とつれない返事。 「ロジックボムやマルウェアの心配はないの?」 懸念は怒った撫子に一蹴された。「私のセキュリティー性能を試すなんてひどい女ね!」 「ごめんなさい。プライドを傷つける意図はなかったの」 咄嗟に平謝りした。彼女の機嫌を損ねると二週間ほど尾を引く。 こんな遠路はるばる便りをよこすとは尋常じゃない。 そもそも一介のスペースエンジニアに何の要件があるというのか。 パッセンジャーは海の星(シャルボノー)を目指している。星間物質を吸引して燃料を自給自足するバザード型ラムスクープ船だ。乗員は輪番制で冷凍睡眠する。シャルボノー到着は船内時間で数か月後。へびつかい座の恒星GJ1214の手前で居住区を分離し恒星スイングバイを使って減速する。主機はそのまま通過しヘリオポーズから十二分に離れた場所でメインエンジンを切る。 すると前方に展開していた電磁フィールドが崩れて船体そのもの強烈なエネルギー爆弾となる。降り注ぐ強大なニュートリノが恒星規模の爆弾になりエネルギー源になり通信の発信源になりGJ1214C――金星に似た分惑星だ――の分厚い大気を吹き飛ばしてテラフォーミングが完成する。 そんな大実験に携わるリィン・シュバルツァーが遥か後方の地球にどんな貢献ができるのか。
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