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ドロワムシ
【顛末記より情報開示請求機密解除処理を施したうえで抜粋】
釣鐘状のまるっこい体の底に米粒のような脚が一対ついている。さらに目を凝らすとちっちゃな爪が生えている。ドロワムシ属は汽水湖――海水と淡水が混じり合う湖沼で多くみられるプランクトンだ。それがリィンの水槽でたゆとうている。もっとも顕微鏡ホログラム投射で枕元に拡大投影されているが。
冷却機系統の一時停止は結局のところ大山鳴動してプランクトン一匹によるものだった。バイオロジーセンサーが未登録の生命反応を検出して例外処理の無限ループに陥った。原因はよくわからない。地球を出発して五十年足らず。出張メンテナンスを請け負うメーカーも代理店も方法もない。リィンに出来ることはエラーの元凶を排除しシステムを再起動するのみ。
幸いなことに冷却系全体は第二次世界大戦直後から重工業が盛んな権威主義国のベストセラーだ。質実剛健と旧式を改良発展させながら数十年あるいは百年単位で長期安全運転できるタフさがある。リィンは信頼性に五百名の命運を託した。区画全体を揺るがす制動と気が遠くなるような静寂、そして騒々しい起動音を経てグリーンランプが灯った。
その後、張本人の処遇について当直勤務者と喧々諤々の議論がなされリィンが飼育係に任命された。
海洋性プランクトンはマイペースだ。あくまでゴーイングマイウェイ。半径十光年以内に草木も生えぬ真空砂漠であろうと自立自存を貫いている。
釣鐘のようでスリッパっぽくてガチでがま口財布みたいで今はホトトギス。
そんな変幻自在のプランクトンを眺めていると人生哲学が見えてくる。
呑んびり、湯ったり、だ。
「ふわっふわでかわいい!」
「ひゃん☆」
ガラッと浴室が開け放たれ引戸が外れ多脚戦車とビキニ姿の少女ががっぷり四つに組んだ。
「撫子。貴女ねえ!」
仁王立ちするリィンを金属体がひょいっと跨いだ。
「小百合のことについて大切なおしらせ」
つるりと茹で卵のようなスキンヘッド。そこに五インチ角のフリップが投影される。「貴女ねえ!やめてってば」
リィンは浴槽に体を沈めてレーザー光線をやり過ごす。壁の碁盤に一文字ずつ。非情が升目を埋めている。
―― 告 ――
パッセンジャー号統合幕僚府は子葉ダクト2282の天窓に付着していた海洋性プランクトンの焼却処分を決定した。
当該生命体はパッセンジャー号船内を網羅する生命体登録簿に未記載であり侵入ルートを逆算できない。当該船舶においては閉鎖環境の完全維持のために生物多様性と持続可能な生物相を担保している。悪玉腸内菌から益虫に至るまで余すことなく随時追跡している。
しかるに当該生命体は十二分なシミュレーションにおいても船内環境に不可逆的な破壊をもたらす危険性をぬぐえない。
また地球海洋環境から隔絶した亜光速宇宙船内において起源不明の生命体を検出した事実を幕僚府は深刻に受け止めている。
リィン技師長が命名、飼養している個体――小百合はわずかながらであるが密航者、潜入工作員、外宇宙文明による関与が可能性としてある。
ゆえに至急回収し統合幕僚府責任者、諮問会議立ち合いのもとで殺処分が望ましいと結論した。
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