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生きるか死ぬか
「小百合がどこから来たかって関係ないじゃない! パッセンジャー号をラグランジュ4軌道から打ち上げる時に紛れ込んだのかもしれない。海の星から銀河風に吹かれてきたのかもしれない。どうだっていいじゃない」
リィンは泡だけのまま浴槽を飛び出し海洋性プランクトンの飼育容器を自室から持ち出した。
「待ちなさい!」
撫子は簡易工作ラボに立ち寄って即席の無限軌道を製造した。多脚の一部を切断して履帯に換装。パタパタと御辞儀を繰り返しながら階段を登っていく。
十数メートル先に褐色とターコイズブルーの色彩が揺らめいている。ショーウインドーのマネキンが新作夏物水着のまま飛び出したみたいだ。
「小百合は渡さない。もう誰とも別れたくないの」
リィンは走る。ひたすらに走る。最終ゴールは右舷通路の百メートル突き当り。真空冷却チェインバーだ。航海中に遭遇した貴重な発見を真空乾燥させて標本にする。
「私だって貴女を死なせたくない」
撫子は馬力をあげた。あとわずかで恒星の輝きと消える命だ。なのに、なぜ寿命を持つ生命体をおもんばかる必要がある。
AIである彼女には独特の死生観が生まれつつあった。被造物である自分が死を恐れるなど滑稽だ。しかし不気味に谷を渡航する切符として人間の内宇宙をものにした。そこで真逆のリピドーシスと出会った。
死は怖い。誰だって逃れたい。同時に死は通過儀礼であり忌避すべきでない、という二律背反を得た。
この矛盾を解消する方法が二通りある。自己複製と復元可能な自己保存だ。撫子に部分から全体を再生する機能はなくバックアップシステムはパッセンジャー号の備え付けである。たとえエクスポート出来ても海の星に外部記憶装置の生産ラインがない。
「私は死なない。この子と一緒に塩基配列として生き延びるの」
瀬戸際に追い詰められたリィンは胸の谷間から湯を滴らせている。くしゃくしゃでピッタリとヒップに張り付いたビキニショーツ。なまめかしい生地がエレクトロルミネッセンスに彩られる。
「チェインバーは人間をフリーズドライにする仕様じゃないわ」
定石どおり撫子が説得する。ルーチンワークだ。追い詰められた人間は離散的な思考をする。
「そんなのわかってるよ! 航海中に出会った獰猛なサンプルをアミノ酸の毛結晶に還元する。手の付けなれない生物を将来的に復元する目途は立ってるんでしょ? 小百合や私を包括的な倫理基準が守ってくれる、その日まで私は眠るわ」
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