あのね

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あのね

聞いて欲しいことがあるんだ。 転職先の会社の人に、たくさん褒められたんだ。 しっかりしてるねって言われて、もう29にもなるのに、少し照れてしまうくらい、嬉しかったんだ。 同期の女の子からも、少しだけちやほやされて、鼻の下が伸びちゃってたかもしれない。マスクをしていて、本当によかったよ。 来週から新しい営業所に配属されることになって、そこでの活躍を期待されてるんだ。新しい人と仕事をして、早く認めてもらえるように頑張るよ。 聞いて欲しいことがあるんだ。 昨日、別の営業所の同期の谷口と飲みに行ったんだ。 初めてガールズバーに行ったよ。 化粧と愛想を塗りたくった女の子は、やっぱり素直に可愛いとは思えなかったな。 でも仕事として頑張る人は素敵だと思ったよ。 君もいつも仕事頑張ってたから、こんな感じなのかなって思ったよ。全然違う仕事だけどね。 最近は順調に契約件数も伸びてきて、来年はボーナスも結構もらえそう。もしまだ一緒に住んでたら、そろそろ少し広い部屋に引っ越していたかな。 体に気をつけて頑張るよ。 聞いて欲しいことがあるんだ。 昨日まで40度近い熱が出て寝込んでたんだ。インフルエンザをどこかで拾ってきてしまったから、通勤中の電車の中ではマスクをするようにするよ。 今日も自宅待機で、家でダラダラしてたんだ。 君が置いておいてくれた少女漫画を読んだよ。すごく面白かった。続きを買っておくから、また、とか言いたいところではあるけど、さすがにもう読みには来てくれないかな。 そういえば昨日、同じ営業所の西川ちゃんが晩御飯を作りに来てくれたんだ。君と同い年の女の子。 味の薄いうどんを作ってくれて、君とは真逆だなって思ったよ。 たくさん汗をかいたから、熱が下がったかもしれない。 聞いて欲しいことがあるんだ。 西川ちゃんに告白されたんだ。 とてもいい子だと思うし、僕がまだ君のことを引きずっていることも理解してくれてる。 話をしていても楽しいし、カラオケに行くといつも、流行りの歌を歌ってくれる。 キスもせがまないし、ベタベタ甘えてこない子だと思うよ。 付き合ってもいいかな? もういいかな? 聞いて欲しいことがあるんだ。 西川ちゃんと付き合っていろんなところへ行ったよ。君といった場所も、行きたくても行けなかった場所も。食べたかったものも、飲みたかったものも、浴びて、触れて、全部経験したよ。 上書きって言葉が苦手だけど、確実に上書きをしてしまって、もっと綺麗な色に塗って、そうやって君のいない日々を塗りつぶしていくんだね。 今までもそうだったかもしれない。そうじゃないと、自分を否定していないと、普通でいれなかったかもしれない。でもやっと、受け入れられるようになりつつあるかもしれない。 君がいないってこと。それは変わんないんだし。 聞いて欲しいことがあるんだ。 少し時間が空いちゃったね。ごめんね。 西川ちゃんと結婚することになったよ。お腹には5ヶ月になる子どももいるんだ。 今では日常になくてはならない人になってる。すごくいい子で、たくさん気がきくよ。こんなにいい子、僕にはもったいないくらい、君とは違う魅力でいっぱいなんだ。 まさか結婚するなんて、まさかデキ婚するなんて、思ってもみなかった。だって君とは、そういう約束をしたって、結局叶えてあげることができなかったんだから。夢みたいだ。 ねぇ、今だから言えるんだけど、なんで突然僕の前から姿を消したの?僕を困らせるため?悲しませるため?苦しめるため?忘れられなくするため?そのどれもが当てはまって、そのどれもを感じたよ。勝手だよ。一言ぐらいあってもよかったんじゃないかな。 でもさ、たしかに、日常の端々にちゃんとそれはあって、それを拾えなかった僕が悪かったよね。それを大事にできなかった僕が悪いよね。2度と会えないって分かってから探したって遅いのに、知ってるはずなのに、それなのに遅すぎるってことを理解するのにも、時間がかかったよ。 今頃元気に笑ってるかな。失うって唐突なんだ。今どんなことを考えて、誰といるかも分からないんだ。だからせめて、笑顔でいてね。僕は幸せだった。そして幸せだよ。せめて、あの世で、笑っててほしい。 あのね。
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