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終点の池袋に到着し、大勢の人々がホームに溢れていく。紛れ込むようにして階段を上がって祭りが行われているような人混みに飛び込んだ。山手線の改札は複数あるものの、ようやく慣れたものだった。毎日辿るルート。自分の足跡が刻まれるほど踏み締めてはいるが、それ以上に池袋の人混みは蟻のように多い。 新宿方面行きに乗り込んでシートの端に座り込む。中断した小説は主要人物が敵組織と全面対決を行っており、五反田駅までの約20分間を彩るには十分すぎるほどだった。 何駅かが過ぎた。代々木駅に到着し、視界の端で扉が開く。何人かが降りて何人かが乗ってきた。日常の中で垣間見る繰り返しの作業。特に気に留めることもなくページをめくった。主人公が敵側の総大将と遭遇し、睨み合いが続く。歳は自分と変わらないというのに多大なるプレッシャーの中で主人公の少年は武器を握っていた。ついつい架空の人物と自らを重ねてしまうのは悪い癖なのかもしれない。 ふと視線を上げた。辺りのシートに空きはない。杉村の前にチノパンが伸びている。何気なく目線だけを上げた。 ボーダーの薄いセーターは全体的に暗い。黒いバケットハットの隙間からは羽毛のような白髪が溢れている。少し尖った鼻を囲むように深い皺があった。60代後半だろう、目の前に立つ男性は辺りに目をやって空席を探しているように見えた。 咄嗟の判断ではあった。東京に住む人間はどこか冷たいなどと言われてはいるが、それはあくまでも人口が集中し過ぎているせいだろう。神様が何気なく地球から100人を掬い上げれば、その中に犯罪者や過激な宗教家、差別主義者だって混ざる。だからこそ自分はその中でも透明なガラスでいたかった。 本を閉じてカバンに滑り込ませる。目の前の男性を避けるように立ち上がってから言った。 「あの、ここどうぞ。」 そう言った時にふと頭の中を過ぎったのは、席を譲られることに対して怒る老人というネットニュースの記事だった。自分を老人扱いするなと声を荒げ、口論に発展するというケースもあるらしい。自分の善意が必ずしも相手に届くとは限らないのだ。 しかし目の前の男性は違った。 「ありがとうございます、すみません。」 ほんの少し掠れた声で彼は頭を軽く下げた。ゆっくりと体を反転させて席に座り込む。杉村も軽く頭を下げ、扉の角に立った。 人のためになる行動をした後は気分が良かった。それだけで自分の退屈な日常に小さな花が咲いたように思えるのだから、杉村はそんな自分の性格を鼻で笑って、残りの12分を本を読むことなく過ごした。
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