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渋谷の人集りは、岩の裏をめくった時に見かける虫の大群のようだった。神様は雲を剥がして絶句しないだろうか。下界を覗いてみると大勢の人々が蔓延っている。さらに毎日のように誰かが自分へ届かない祈りを呟きながら空を見上げているのだ。 自分もいつか雲の裏に向かって必死になって祈るのだろうか。ぼんやりと考えながら渋谷駅の改札を出る。ここには様々な人間があちこちに動いていた。ハンディカメラを持った派手な髪色の若者、何を聞きたいのか分からない記者、武装するかのように群れる若い女性、こんな街で何もせず、何も話さないままでいるとそのまま存在が消えてしまうのではないかと不安になった。光を放つ大量の石の中でビー玉は目立たない。 秋田犬の銅像の前で、つい最近友人関係を結んだばかりの3人が立っていた。先に気が付いた長谷川が手を振る。 「悪いね、付き合ってもらっちゃって。」 「大丈夫。私も買い物行きたかったしさ。」 白い長袖には外国で撮られたであろう林の写真がプリントされており、黒いキャップをかぶった平山と目が合った。だぼっとしたジーンズと黒いコンバースをあわせたその服装は、いかにも若者である。 「僕も冬服買わないと。」 「トシは渋谷より巣鴨で服買った方がいいんじゃねぇの。」 「じゃあ翔は田舎のリサイクルショップに行った方がいいんじゃない。」 三谷と平山が笑いながら言い合って、それを合図かのように4人はスクランブル交差点に向かった。空高く小型カメラを掲げる外国人をすり抜けて、センター街に入る。両脇を固める建物からは五臓六腑を握り締めるような音楽が雨のように降っていた。 「てっちゃん、どこまで行くのこれ。」 まだ彼らのあだ名をしっかりと把握してなかった。道の先を行く長谷川がこちらを振り向いて言う。 「ベルシュカ。そこ曲がったらすぐだよ。」 歩道、車道の垣根は存在していないように思えた。大勢の人々を掻い潜りながら隣を歩く平山に声をかける。いつもより声量を大きくしなければ届かないのではないかと思うほど、渋谷の中央は喧騒に満ちていた。 「渋谷、あまり来ないの。」 キャップのつばから皺だらけの目が覗く。乾いていそうに見えて瞳は暖かだった。 「2人と一緒だったら来るけど、1人では来ないかな。杉村さんはよく来るの。」 「さん付けしなくていいよ。私も1人では来ないかなぁ。」 最後に渋谷を訪れたのはいつだったか、記憶のファイルを掻き集めても答えは出なかった。 客引きを避けて右に曲がる。その奥で赤いガラスの建物が空に伸びていた。白い字体で店名が描かれている。特に迷うことなく先に立つ2人は吸い込まれるように進んでいく。赤い枠が4つ並び、端が出入り口のようだ。人混みの中で三谷が言った。 「トシ、お前は杉村と一緒にいろ。」 間延びしたような声で平山は答えたが、杉村は思わず口を挟んだ。 「どうして。トシくんもメンズフロアに行けばいいじゃん。」 思わずそう名を呼んだが、特に気に留めることはなかった。しかし長谷川は諦めたような口調で言う。 「ちょっと前にさ、各々服買おうぜって話になったんだよ。それでこいつ何買ったと思う。腹巻きだぜ?」 「だって、その方がよりおじいさんっぽいでしょう。」 「だからダメなの。次の2月で20歳になる男がジジ臭い服なんか選ぶな。トシの分は俺たちがきちんとコーディネートしてやるからな。その服だって選んだの俺だぞ。」 言い聞かせるように伝え、2人はエスカレーターに飛び乗った。取り残された平山は吹き出すように笑って言った。 「僕、ファッションセンス無いみたいなんだ。うちの親もあの2人に服選んでもらいなさいってよく言うんだよね。」 そういうことだったとは知らなかった、杉村は細かく頷いて服を見て回ることにした。 その間、平山は夏休みの少年のようだった。どうやら女性服売り場に慣れていないのだろう。背後に立っては感想を呟き、疑問を投げてくる。これはどうやって着る物なの、スカートの中にスカートがあるの。丁寧に答えていくと、彼は新たな知識を手に入れた少年のように関心を持って反応をくれるのだ。 女性の買い物を男性が嫌がるのは、知らないものばかりで溢れているからだろう。自分にとって判別が難しいものを理解しようとしないのだ。現に杉村は、自分が模型売り場に行った場合ひどく退屈に思うだろうと考えている。それでも明るく、相手が気を害さないように振る舞うには、何事にも関心を持つことが重要だった。 平山は隣にいて心地がよかった。 「すごい、似合ってる。」 試着室のカーテンを開けて、彼の前に立つ。赤いニットは首元まで覆ってくれる暖かな仕様だった。黒のタイトスカートを合わせて平山を見る。何故か杉村よりも生き生きとした目で見るものだから、思わず笑ってしまった。 「いや、本当だよ。すごく綺麗だ。」 「そうかな。少し派手かなと思ったんだけど。」 彼の真っ直ぐな言葉に少し頬の裏が熱くなった気がした。それに気が付かず平山は言う。 「そんなことないよ。色も明るいし、可愛い。」 言葉を中途半端に区切り、平山は下唇を仕舞った。それを聞いて杉村も口籠もってしまう。異性からそのような言葉をかけられた経験は非常に少ない。そのためか全身が痒くなったような感覚を味わった。 「じゃあ、これにしようかな。」 笑って頷いた平山の表情には、数え切れないほどの皺が生まれていた。
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