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13
江戸川橋に降り立ち、神田川の上にかかる首都高速を潜って薄暗い路地に入る。彼がオススメというレストランは駅から歩いて少ししたところだった。
「ここ、会社じゃないの?」
辿り着いた場所は印刷会社らしく、自動ドアの枠には会社名まで書かれている。しかし平山は笑って言った。
「2階にレストランがあるんだ。そこがすごく美味しくて。」
自動ドアを潜って中に入る。エスカレーターで上がり、角を曲がると小洒落た扉にぶつかった。小石川テラスと書かれたプレートが下がっている。少しだけ不安になった杉村は声を殺して言った。
「ここ、大丈夫?高くない?」
「心配しなくていいよ。僕が払うから。それにここ意外と安いんだ。」
彼の言う安いがどれほどのものかは分からなかったが、とにかくついていくことにした。
店内はかなり静かだったものの、かなり広かった。柔らかそうなソファー席が並んでホテルのロビーを思わせる。いかにも高級な内装に杉村は落ち着かなかった。白いレースシャツにフリルのついたベージュのサロペットスカートがどこか場違いに思えてしまう。丁寧な店員に案内されて真ん中のソファーに腰掛けた。
思わずメニューを手に取る。余白の多いページに小さな字が並んでいたが、値段を見て胸を撫で下ろした。
「意外と安いでしょ。それに一品だけで結構ボリュームあるから、安く済むんだよね。」
牛カルパッチョとフォアグラの巻き寿司は1000円もしなかった。
「よく知ってるね、結構穴場じゃない?」
「ここ夜はあまり人がいないんだけど、ランチとか貸切営業で賄ってるみたいなんだ。僕の親の銀婚式でここを貸し切って、そこで知ったんだよね。」
よく見ると天井にはプロジェクターのような機械が密かに吊るされていた。席の向こうにはバルコニーがあるのか、都会の夜を背に緑が茂っている。
「何か苦手なものとかある?」
さっとメニューに目を通してみたが、特に気になるものはない。首を横に振ると、平山は自身がオススメする料理を注文し始めた
「コーレーグスとカニ味噌のアヒージョ、牛カルパッチョとフォアグラの巻き寿司、アンチョビのペペロンチーノです。こちらはドリンク、烏龍茶です。」
台車のようなもので運ばれてきた料理が並ぶ。パスタの量は2人でも余るのではないかと思うほどボリューミーで、これでもまだ3000円にすら届いていないというのだから杉村はただ驚いていた。
「これ、トシくん食べきれるの?」
「ちょっと厳しいかな…いつも頼んでからそう感じるんだよね。」
照れたように笑う。バイキングで後悔する少年のようだった。
「でもこれだけ頼むのはいつも特別な時って決まってるし、頑張って食べないと。」
何故だか杉村も照れたように笑ってしまった。隠すように取り皿を持ってトングにパスタを絡め取り、平山に渡してやる。彼は未だに小さな気泡を作り出すアヒージョを掻き混ぜていた。どうやらバゲットの上にカニ味噌を乗せて食べるらしい。皿を受け取ってフォークをパスタに刺したところで、杉村は思い出したように言った。
「トシくん、薬。」
「ああ。忘れてた。」
慌てた様子でMA-1の下を弄る。薬を口に放りグラスの中の水を空にして、ようやく2人のディナーが始まった。
見様見真似でバゲットを手に取り、カニ味噌を掬い取る。ふやけたトマトを一つ添えて慎重に口元へ運んだ。半分まで齧る。濃厚なカニ味噌の味が口いっぱいに広がり、油でコーティングされているためにしつこい風味かと思ったが、トマトの甘みがそれを中和してくれた。少し酸味も効いている。杉村は思わず手で口元を隠して言った。
「何これ、美味しい。」
「でしょう?意外とさっぱりしてるんだよね。やっぱりそれから食べようかな。」
パスタを絡めていたフォークを離し、取り皿の上で油を吸ったバゲットを持って一度に全て口の中に収めてしまう。うまく話せないのか、皺だらけの目をぱちくりさせていた。それが可愛らしく思えて吹き出してしまった。
「これも美味しいよ。フォアグラがあるとないとじゃ全然違うんだ。」
ようやく言葉を取り戻した平山が、小洒落た巻き寿司を指差す。バゲットを平らげて箸を取った。慎重に寿司を皿の上に運び、甘いソースの香りが鼻を掠める。赤い牛の肉が薄く米を巻き、その上にフォアグラの欠片が佇んでいた。恐る恐る口の中へ運び、ゆっくりと噛み締める。一度に幾つもの味わいが押し寄せた。薄切りながらもジューシーな赤身の風味にアクセントとなる胡瓜が食感を加える。甘いソースもさることながらフォアグラが濃厚な味を生んでくれた。
「本当だ、これフォアグラあった方がいいね。」
美人が洒落た服を着ている、そんな感覚に近かった。
それから2人は味の感想のみを交換しながら黙々と食べ進めていった。
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