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地面を見て歩くことが当たり前になったのは、いつの頃からだろうか。歩き出す度に自分の爪先が押しては引く。足元の漣が煉瓦色の歩道に舞って最寄り駅に急いでいた。杉村由花はキャラメルのようなプリーツスカートを揺らがせてため息をついた。昨日も一昨日も、その前から何度も繰り返す退屈な日々が始まる。 白いブラウスシャツにベージュのビスチェは確かこの秋に流行すると、中性的なお笑いタレントがテレビの中で話していた。代わり映えのない緩やかな波をほんの少しでも彩ろうという無駄な努力に思えたが、それでも着飾らなければ自分が消えてしまいそうだったのだ。あちこちから訪れる人々に揉まれて丸くなっていく石のようで、なんとか流されないようにもがいていく。杉村の住む本郷三丁目は東京都文京区、大型球場の陰とはいえ人の数はかなり多い。 大通りから1つ路地に入り、商店街を思わせる飲食店の壁に挟まれながら進んでいく。その奥を塞ぐかのように本郷三丁目駅が真っ赤な枠を道の真ん中に広げていて、人々がそこに吸い込まれていくようだ。カラフルな小石の中で目立たないように流れていき、銀色の長い箱に滑り込んだ。赤いラインの刻まれた電車内で数十個の小石が揺れる。席の端に座って杉村はポケットから携帯を抜いた。昼前にも関わらずシートは全て埋まっている。東京都の左端、あきる野市から上京して2年が経つものの、未だに見慣れない光景だった。 トークアプリを立ち上げると、小さなガラスの中で様々な文字が浮かんでいた。東桜大学に入ってから出来たばかりの友人たちは皆やたらと遊びに行きたがる。中学生の時から読書が趣味である杉村にとって、飲み会などの類は受け付けなかった。まるで自分の孤独を無理やり相手に当てはめているようで、みっともなく見えてしまうのだ。 早々に携帯を戻し、黒いトートバッグから蝉の抜け殻のような色のカバーがかけられた小説を抜いた。それまでチャレンジしたことのないファンタジーのジャンルは意外にも面白く、人間の感情を悪戯に貪る怪物を倒すストーリーは現代の風刺にも見えてしまう。アクセントが効いていて非常に愉快だ。 活字の中に飛び込むと全てが自分の思い通りになる。ドラマや映画とは違って情報は文字のみで、どんな人物も、どんな場所も好きなように頭の中でデザインが出来る。その作品の世界を真上から見下ろして現実世界から隔絶させ、退屈を忘れさせてくれるのだ。 池袋駅までの約11分間、杉村は字に酔い痴れていった。
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