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講義を済ませて大学を出ると、辺りは緋色に染まっていた。赤い夕暮れを背にして五反田駅に向かう。高架下をくぐって大通りの端を歩き、横に広がったビルのような駅に入る。大勢のサラリーマンでごった返す中、改札に滑り込んで電車を待った。 几帳面な性格なのかは分からないが、杉村は常に乗降する車両を決めていた。ここに乗ればここで降りる。そんな繰り返す作業を日常の中に染み込ませているのだ。 5両目の1番と書かれた端の扉が音を立てて開き、あまりにも窮屈な人混みが現れた。満員電車はこの国の最重要課題だろうと何度も痛感する。後続に押される形で車内に入った。人の熱気が蒸して雲を作り出してしまいそうだった。 座席の前に立って吊革を掴む。30分後にはバイト先へ出勤しなければならない。疲労を紛らわすかのように重心を片足に預けた。小さなため息をついてふと目線を下に向ける。 少しだけ見覚えのあるバケットハットがあった。グレーと黒のボーダーに細いチノパン。膝の上に置かれた手の甲には深い皺が刻まれていた。 眠っているのだろう、数時間前に席を譲った初老の男性になるべく影響が出ないように少し距離を置いて杉村は考えていた。 人は何故老いるのだろうか。生き物の中でもその経年劣化は目に見えて分かる。一見元気そうに見えても寿命が近い犬や猫と違って、人には皺や白髪という大きな特徴があるのだ。それは切っても切れない因果である。 原因は経験なのだろうか。人はどの動物よりも様々な経験を積む。それが自然と重荷になっているのかもしれない。恋愛、仕事、学校、人間関係、数十年の積み重ねが人間を真上から圧し潰す。 だとしたら、自分はいつ頃から目に見えて老いていくのだろうか。 大きなバックパックに鉄塊を詰め込むようなものなのだろう。歳を経て、あらゆる経験が鉄塊となってバックパックの底に沈む。中学生の時、終業式前にまとめて荷物を持ち帰らなかった男子生徒がはち切れそうな学生鞄を背負っていた光景を思い出した。あんなにも足腰を痛める姿勢がこの先の道で待っている。少しだけ憂鬱に感じた杉村は気付かぬまま深いため息をついた。 ふと落とした視線の先、初老の男性が顔を上げていた。マグネットで張り付いたかのように目が合う。涙袋こそはっきりしているものの、目元の皺は深い。しかし彼の目は非常に暖かかった。 照れたように小さく頭を下げる。彼に答えるように、杉村も軽く会釈した。 『次は、代々木。代々木。』 無機質な車内アナウンスが響く。すると初老の男性は座席の端に沿った鉄の棒を持ってゆっくりと立ち上がった。その時に見たのは彼の意外な身軽さだった。 決して素早く立ち上がる訳ではないが、腰を上げた際に感じた妙な機敏さが目立ったのだ。 再び頭を下げて杉村の脇をすり抜けていく。降車した彼の背を見守って、ぬくもりの残る空席に腰掛ける。老いてもなお身軽な人がいるように、彼もそうなのだろう。何事も見た目だけで決め付けるのは得策ではない。改めてそう思い直し、杉村は新大久保までの道のりで目を瞑っていた。
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