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「お待ちどう様です、カツ盛り合わせ定食です。」 漆色のトレイに乗せられた皿の上で、湯気を放つ豚の切り身が並んでいる。その両端を麦飯と白味噌ベースの味噌汁が挟んでいた。どちらも程よく暖かい。厨房前のカウンターに腰掛けたサラリーマンは1人でありながら頬を緩ませている。 「ごゆっくりどうぞ。」 たまらないといったように木の箸を2つに割って、少しだけ薄くなっているであろう頭頂部を傾けながらサラリーマンは早めの夕食に手をつけ始めた。 コリアンタウンとも呼ばれている新大久保の駅前は、本当にここは日本ではないのかもしれないと思わせるほど韓国語が飛び交っている。しかしその群れの中には日本が誇る和食の店もしぶとく根を張っており、杉村がアルバイトを始めて1年が経つカツ専門店、勝々もその中の1店舗だった。辛い料理に飽きたであろう観光客、昼時には近くのオフィス街からわざわざ足を運ぶサラリーマンやOLも多い。 食堂を思わせる内装は薄いベージュの木目調、電飾は暖かい。割烹着のような制服に身を包んで杉村は厨房に戻った。真四角に区切られた銀色の洗面台で手を洗う。 「杉村、ネームプレート曲がってるぞ。」 隣で洗浄機から皿やコップが詰められた箱のようなものを手に取り、相良雄大が言った。彼は都内でも高学歴と名高い京明大学に通う4年生で、この職場においても彼が先輩であった。杉村は胸元に刺さる小さなネームプレートを見た。白く細長い枠が首を傾げている。 「本当だ、ありがとうございます。」 普段は鎖骨のあたりで下がっている黒髪を、杉村は後ろで束ねていた。頭を振ってまとめられた毛の束を右肩にかけてから曲がったネームプレートを直す。 「今日の昼、凄かったんだよ。俺と店長だけで2時間満席凌いでさ。マジで足腰痛いわ。」 白い和帽子からは茶髪が数本覗いている。相良は半袖の近又白衣の上から腰を叩いて言った。厨房は最大で20人が存分に作業できるほど広い。3つに分けられた銀色の大きなテーブルの上に洗浄機から抜いた箱を置く。噴き出る熱が杉村の顔を真正面から叩いた。火傷しないように再び洗面台の蛇口を捻り、冷水で手を濡らす。黒い湯飲みを手に取って、洗浄済みと書かれた銀のトレイに並べていった。 「そんなに忙しかったんですか。」 「そうなんだよ。猫の手も借りたいってああいうことを言うんだな。」 疲れたように笑う相良の顔立ちは、アイドルのように整っていた。そんな彼が地味な印象を持たれる自分に声をかけてくれるのだから、畑中とどこか性格が似ているのかもしれない。 「杉村さん、キャベツ2玉機械にかけておいてよ。」 どこか高圧的に聞こえた女性の声、小瀧優里香が眉をひそめて向こうのテーブルから杉村を見ていた。睨むという表現の方が正しいのかもしれない。真珠のようにぱっちりとした目にすらっと伸びた鼻筋、柔らかそうに膨らむ下唇は同性ながら見惚れてしまうほど綺麗だった。しかしそんな端正な顔立ちが勿体無いと思えてしまうほど、小瀧の表情には苛立ちが見て取れる。一度だけ返事をして、杉村は相良の前から離れた。厨房の真ん中を陣取る作業用テーブルには電動のスライサーが置かれている。低い冷蔵庫からキャベツを2玉手に取って、まな板の上に置く。包丁でそれを半分に割り、芯を斜めに切り取ってからスライサーにかけるのだ。 機械の上に設置された低い筒に大きな欠片を押し込み、自動で生まれる千切りを受け取るためのカゴを置いてからスイッチを入れる。1玉が40秒弱で全て細かくなるのだから、業務用の調理器具は侮れない。 「ねぇ、仕事中なんだからさ。私語やめなよ。お客さんに聞こえるでしょう。」 豚肉の下準備を終えた小瀧が、テーブルを挟んで言った。単語1つ1つに怒りの色が滲んでいる。それでも杉村は、小瀧が相良や店長たちと何度も私語を重ねていることを知っていた。この距離ならば多少の会話は客席には届かない。それは店長から聞いている。しかし彼女が何故自分にここまで高圧的な態度をとるのかは、簡単に理解できた。 相良と会話する自分が気に入らないのだ。 今の退屈な日常の中に唯一気に入らない点があるとするならば、彼女の嫌味だった。それでも勝々は給料もよく、相良や店長との会話は楽しい。自分に高圧的な態度をとる女性従業員がいるから辞める、などという選択肢は、内気な性格の杉村にとって最も浮かぶことのない選択肢である。小瀧は同い年の専門学生だが、この職場では彼女が1年先輩だ。こういったお局のようなプレッシャーに耐えることが、この先の社会で重要になるのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、杉村は滝のように落ちていく細いキャベツを見守っていた。
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