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定期券内ということもあり、講義のない平日の昼頃、杉村は池袋駅で山手線に乗り換えた。代々木公園と併設されている明治神宮には杜のテラスというカフェがあり、読書のために何度か訪れていた。明るい木目調の平屋に、お気に入りのカウンター席もある。端の席でアイスコーヒーを飲みながら和三盆と豆のパウンドケーキを食べ、活字の世界に没頭する、我ながら良い日常だと感じていた。 『次は、代々木。代々木。』 聞き慣れた車内アナウンスが鳴り、杉村は立ち上がった。ブラウンの薄いシャツは袖が膨らんでおり、ゆったりとした着心地がある。チェック柄のスカートはぴったりと張り付いて脛上まで伸びており、意外にも体のラインは分からなかった。紅芋色のソックスにショートブーツを合わせ、改めて昨年の秋に購入してよかったと感じる。内気な性格の自分でも衣服や髪型、化粧に気を配れば退屈な日常に色が浮いて見えるのだ。 扉が開き、代々木駅のホームに降りる。ホームドアと壁の距離は狭く、工事中と書かれた白い出っ張りの前を通り抜ける時は体を斜めに向けなければ通れないほどだった。都心部でも不完全な駅はある。改札へ向かおうと歩いていた杉村の視線の奥で、見慣れた初老の男性がいた。グレーの長袖に黒いカーゴパンツ、同色の暗いニット帽から白く細い毛先が覗いている。名前も出自も知らないが、何故か顔見知りのように思えた。 彼はいつも代々木駅で降りる。分かっているのはそれだけだ。しかしまだ杉村があきる野市に住んでいた頃は、そんな面識の少なさでも言葉を交わしたものだった。生まれ育った土地は東京都ながらに田舎であると思っている。人の数が少ないからこそ気兼ねなく話せる、そんな土地柄で育った杉村にとって、ホームの奥からこちらに歩いてくる初老の男性は顔見知りも同然だった。こちらから話しかけることはなくとも、目が合えば会釈する。たったそれだけで人間関係は作られていくのだ。どこかで交わることもなくすれ違って日常は続いていく。そう思っていた杉村の視線の先で、妙な動きがあった。 2人の学生だった。背の低い初老の男性の背後を歩く男子学生はおそらく自分と同い年だろう。一方は髪を明るい茶色に染めて搔きあげており、輪郭は研がれているように細い。白いロングTシャツには黒い塗料をいたずらに塗したような模様がプリントされていた。太いジーンズは足元でゆとりを残している。 もう1人は顔立ちこそはっきりしているものの、ウェーブがかった黒髪を肩まで伸ばし、オーバーサイズのパーカーに身を包んでいた。対照的に細めの黒いジーンズには所々ダメージ加工が施されている。そんな2人はお互いに目を合わせて、歩く速度を上げた。徐々に初老の男性の背中へ近付く。彼らが初老の男性を避けて歩く素振りなど微塵も感じられない。冷たい汗が背中に張り付いて落ちる。一瞬頭の中によぎった不安は、杉村の視線の先で現実となった。 「よう。」 茶髪を掻き上げた男性がガッと肩に手をまわす。覗き込むように背の低い初老の男性に声をかけた。 「ちょっと付き合えよ。」 パーマがかった長い髪を額の真ん中で分け、もう1人の男子学生が言う。初老の男性は何か言っていたが、この距離では聞き取れなかった。 改札へ続く階段に辿り着くまで、お互い残り30秒程度だろう。杉村は平静を装いながら胸の裏を叩く鼓動を感じていた。このままではあの男性が危ない。分かっていながらも行動に移せないのは、昔から嫌いな自分の性格だった。 1歩踏み出すだけで何かが変わるかもしれない。周りに良い影響が及ぶかもしれない。にも関わらず頭の中から拭えないのは、誰かが代わりにやってくれるという曖昧な希望だ。ここで自分が初老の男性に声をかけなくとも駅員が対応してくれるだろう。3人の様子を見れば老人に絡む男子大学生と判断して注意してくれるだろう。自分が何か言う必要はないだろう。しかしそんな消極的な性格で何度も後悔する出来事は何度もあった。 ちっぽけで、みっともなくて、誰かに頼る性格はもう終わりにしよう。ほんの少しだけ震えている足に拳を打ち、杉村は3人の前に向かった。 しかし何を言えばいいのだろう。衝動的に歩を進めていたが、杉村は迷っていた。真正面から注意したところであの男子学生たちはやめてくれるのか。不安と焦りが胸の中でごおーっと派手な音を立てながら渦巻く。段々と呼吸が深くなった。面識のない同性とですら親しく会話できないというのに、あの男子学生に声をかけて言葉は出てくれるのだろうか。そんなネガティブな感情を余所に4人の距離は縮まっていく。最初にかける言葉すら見つからないまま階段の横をすり抜けて、杉村は立ち止まった。 「えっと、知り合い?」 初老の男性の肩に手を回した男子学生がセンター分けに言う。この2人はおろか、真ん中に立つ背の低い男性の名前すら知らない。それでも勇気を出さなければならない時は来る。ゆっくりと深く呼吸をして、杉村は口を開いた。 「肩から手を離してください。」 2人は不思議そうな表情でお互いを見ていた。仮に初老の男性の代わりとして自分が連れられようとも構わない。誰かを救うことは自分を削るということだ。 「肩から手を離してください。おじいさんにそうやって絡むのはやめた方がいいと思います。」 自分の声が震えていることに、不思議と恥ずかしさはなかった。 「いや、俺らこれからカラオケ行こうと思ってるんですけど。」 「カラオケにおじいさんを連れ込んで、どうするんですか。」 「えっとですね。ちょっと聞いてくれませんか…。」 センター分けの男性が困ったような表情で言う。しかし一切の言い訳を許さないように、杉村の言葉は止まらなかった。 「言い訳するのはやめてください。どちらかの祖父には見えません、この人に何かしようっていうなら警察を呼んでもいいんですよ。」 スカートのポケットに手を忍ばせ、携帯に触れる。いつでも通報できるようにガラスの上へ指の腹を這わせた。最早体の至る所から汗が噴き出しているような感覚が気持ち悪いものの、後悔はしていなかった。 「待ってください、俺ら友達なんですよ。」 あまりにも苦し紛れな言い訳だった。この場において自分は圧倒的に優位である。そう思うだけで心の中に少しだけゆとりが生まれた。 「ふざけないで。早く手を離して。」 しかし新たな疑問が浮上した。何故両脇の2人はこんなにも困惑した表情を続けているのだろうか。もしこの初老の男性に集ろうというのなら反抗的な態度を見せるのではないか。にも関わらずこの2人は何かを考えているように見える。これ以上どんな言い訳をしようというのか。さらに2人を脅すために携帯を抜こうとした時だった。 「あの、僕ら同い年なんですよ。」 「え?」 そう言ったのは脇の2人ではなく、真ん中に立つ背の低い初老の男性だった。
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