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平山俊明、千濁川大学に通う2年生。代々木駅前のカフェで窓際の席を取って初老だと思っていた19歳の平山はニット帽を脱いだ。彼が提示した学生証には確かに同い年である証明が書かれている。来年の2月に20歳を迎えるらしい。 「いやー、疑いが晴れてよかった。」 茶髪の男性は三谷翔といった。真ん中に座る男性は長谷川哲志というそうだ。杉村は届いたアイスコーヒーに手をつけることなく頭を下げた。 「本当にすみませんでした。」 「いいんですよ。僕がこんなですから。」 杉村から見て左端、窓の向こうから視線をこちらに戻した平山は笑って答えた。しかしその目元は明らかに同い年とは思えないほど皺が深い。不思議そうな表情をしていたのだろう、長谷川はアイスコーヒーを一口啜ってから言った。 「ほら、説明してあげな。」 「そうだね。えっと、お名前は…?」 「杉村由花です。」 まさか電車で見かけるだけの人と名前を交換するとは、全く思わなかった。杉村が少し遅れてから答えると、平山は笑って言った。 「杉村さん、ウェルナー症候群って知ってますか?」 聞いたことのない病名だった。ゆっくりと首を傾げていく。平山はテーブルの下から手を出して、テーブルの上に指先を這わせた。彼の人差し指には樹齢1000年を思わせるほどの線が刻まれている。それが真っ白なテーブルに文字を描き始めた。 「早いに老いると書いて、早老症と書きます。簡単に言えば実年齢よりも老けてしまうっていう病気なんです。」 人間の体を未だに人類は解明できていないように、その倍以上病というものは存在するのだろう。一体どういう理屈で神様は早く老いる病を与えたのか。 「きちんと説明すると難しいんだよな。これ、読んでみて。」 黒い大理石のようなスマートフォンを翻し、三谷が白い画面をこちらに向けた。牛乳の上を無数の蟻が這っているように文字が並んでいる。杉村は心の中でその文章を読み上げた。 『1904年、ドイツの医師オットー・ウェルナーにより初めて報告された稀少な遺伝病。思春期を過ぎる頃より急速に老化が進んでいき、20歳代から白髪、脱毛、両目の白内障、手足の筋肉や皮膚が痩けて硬くなる。この病気は世界中で約6割の患者が日本人である。WRNと呼ばれる遺伝子の異常が原因と考えられているが、WRNの異常により何故老化が早く進むようになるのかは未だに分かっていない。』 思わず眉をひそめた。言葉にすれば簡単に病だと理解できるというのに、その原因は分かっていないという。三谷は携帯を手前に戻して言った。 「俺ら小学生の時からの付き合いなんだけど、確か発症したのは中学生の時だったよな。」 「そうだね。みるみるうちに皺は増えるし、直射日光も厳しくなってきたし。」 「前に白髪が嫌で勝手に染めようとした時あったよな。それでお前医者にめっちゃ怒られてさ。」 杉村の前で笑いが起こる。あたかも懐かしい思い出のように小難しい病を話している3人が、どこか羨ましくもありながら不思議に思えた。それを察したのか平山は取り繕うように言う。 「一応指定難病なんだけど、周りから見たらただのおじいちゃんなんですよね。もちろん席を譲ってもらったり、体調を労ってくれるのは嬉しいんだけど、なかなか分かってくれないことが多くて。それに治癒力も低いんです。足に傷が出来ると治りにくくて、傷口から感染を繰り返して足を切断するケースもあるんですよ。とにかく肌が弱いんです。」 「ローファーに靴擦れしないようにクッションみたいなやつ咬ませてたよな。」 「今もしてるよ。」 杉村はただ驚いていた。何気なく日常の隅で見かけていた初老の男性が、まさか自分と同い年で肌の弱さを必死にカバーしている。人は一枚の皮の裏で様々な努力と辛さを仕舞っているということだ。 「でも、今まで俺らに話しかけてくる人いなかったよな。皆おじいちゃんから金せびろうとする大学生に見えてたのかな。」 「だから周りに気使ってよって言ったじゃん。」 「あの、本当にすみませんでした。」 代わりに三谷が手を横に振った。 「いいよ。敬語もなくていいから。」 ようやく杉村はアイスコーヒーに手をつけた。透明なグラスに小さな水の玉がびっしりと張り付いている。ストローから少しだけ冷えたコーヒーを啜ってから言った。 「じゃあ…この病気って治るの?」 根本的な問題だったが、未知の病であったためについ聞いてしまった。しかし平山は特に感情を揺らがせることもなく言う。 「治らないと思う。この老化の治療も予防方法もないんだ。でも悪性腫瘍とか白内障とか、老けるが故に早く発症する病気は治すことができるから、ゴールのないスタートラインに立ったって感じかな。」 妙に納得するのは当事者からの意見だからだろう。深く息を吐きながら納得していると、平山はゆっくりと立ち上がった。 「ちょっとトイレ行ってくるね。」 「はいよ。」 この3人は昔から仲の良い友人たちで、唯一変わっているのは平山俊明が早老症という難病を持っているということだけだ。窓際の席から店の奥へと消えていく背中はすらっと伸びている。すると、彼を見送った前の2人は突然姿勢を正し始めた。まるで面接の順番が回ってきたかのように真面目な表情へと切り替わっている。不思議そうに2人を見ると、先に長谷川が口を開いた。 「ちょっと杉村にお願いというか、出会ったばかりで申し訳ないんだけど。」 その言葉に杉村も姿勢を正した。一体何が始まるのかは分からないが、思わず表情が強張ってしまう。その続きを三谷が担って、2人は突如頭を下げた。 「トシと友達になってくれないか。」 初めて言われた言葉だった。気が付けば友人になるケースがほとんどだろう。頭を上げた2人は未だに神妙な面持ちだった。三谷は低い声で続ける。 「さっきも言ったけど、こんなことなかったんだ。トシは小学生の時に女友達に裏切られていじめられたんだ。元々体が弱かったっていうのもあって、あいつは友達を作ることがうまくできなくなった。相手が女性なら尚更だ。」 「だから俺と翔で話したんだ。体の弱いあいつのことだから、もしかしたらいきなり大病にかかるかもしれないって。だとしたら今この瞬間が、トシにとって人生の下り坂かもしれない。」 人は突然死ぬことがある。大型トラックが不意に訪れたり、奇妙なウイルスに犯されたり、誰かの憎悪が凶器となって刺さることもある。だからこそ10代後半で人生という小高い山の後半にいるということは、あまりにも残酷だった。今この世界にいる若者たちは、自分は人生の下り坂にいると思うことはないだろう。まだまだ山頂までの道のりは遠いはずだ。友人の彼らでさえそう思うのだから、当の本人はとっくにこの残酷な現実を受け入れているのだろう。ふと悲しくなって杉村は眉尻を下げた。 「トシと長い付き合いなのは俺たちだけなんだ。あいつには今女の友達がいない。作れない。だからあいつと友達になってほしいんだ。」 悲痛な叫び声に聞こえたのは気のせいではなかった。彼のことを長年友人として想っているからこそ、ようやく絞り出せる願いである。今まで友情という漠然としたものが曖昧だった杉村にとって、目に見えて分かる友人関係は羨ましかった。 「もし嫌じゃなかったら、あいつと飯行ってみるとか、それくらいでもいい。2人だけが厳しかったら俺らを誘ってもいい。だから、この通りだ。」 そう言って再び頭を下げる。平山がトイレに立ったタイミングでこの提案をするのだから、おそらく2人は彼にとってお節介な働きをしているかもしれないと感じているのだろう。それは彼らの表情を見て分かった。真剣な表情がゆっくりと変わって、申し訳なさそうな顔に見える。平山がいると話せないことが、平山のことを想っての内容。杉村は鼻から息を抜いて答えた。 「いいよ。人付き合い苦手な性格だけど、こういう新しい出会いもいいしさ。」 2人の表情がぱぁっと輝いた。水面から上がってきたかのように深く息をして笑顔を見せている。今までの自分だったら素直に承諾しないだろうと、杉村は考えていた。畑中と大学1年生の講義で出会わなければ簡単に了承する可能性はゼロに近かったはずだ。少しだけ明るくなれた気がする自分、学校に職場以外での出会いはあまりにも新鮮で、楽しそうに思えた。 「どうしたの、楽しそうだね。」 浅葱色のハンカチで両手を拭きながら平山は戻ってきた。笑うとさらに皺が深くなり、それが暖かな印象を受ける。どこかほっとする彼の表情は老けているにも関わらず、少年のようだった。 「トシ、さっさと携帯出せ。」 「なんでよ。」 「いいから、お前の顔に合ってない最新のスマートフォン寄越せ。」 こうやってお互いが茶化し合う、この関係性に飛び込むことは容易ではないかもしれない。それでも今日というこの日から徐々に始まっていく関係性は、友情を育てていくようで胸が高鳴った。 連絡先を交換した4人は、子どものようにじゃんけんをした。三谷の奢りということで、その場はお開きとなった。
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