3人が本棚に入れています
本棚に追加
やさしい時間
6月に入ったある朝のこと。学生は今日から半袖の夏服に一斉に衣替えだ。この時期は温度変化が激しい。朝はまだ肌寒く感じられた。一人の男子高校生がバス停にいた。一番乗りなので他に人はいない。彼は半袖シャツにズボンという定番の学生服姿で、足元に鞄を置いてバスを待っていた。肩を竦ませガタガタ震えていると
「大丈夫?」
背後から声をかけられ、少年は後ろから抱き締められた。
「え、あ」
少年は戸惑うも
温かい……
その温もりに身を委ねる。俯くと自分の肩の上に見えたのは、大人の男性と見られる大きな手だった。その手の主は言った。
「衣替え?」
「はい」
「高校生は大変だね。まだ寒いのに」
低くてやさしい声だった。
めっちゃいい声!?
そんな声で話しかけられ、少年は心地良くなる。
ついでに恥ずかしさでなんか身体中が火照ってポカポカしてきた……
少年が高揚していると
彼らがいるバス停に向かって人が歩いて来た。
やっべ!?
少年は慌て、背後の男性がすっと腕を解く。
すると
あ、やっぱ寒い……
背中が寒くなりぶるっと震える少年だったが
「?」
変わりに今度はピタッと横に密着してくる男性。
うわ、と横を見上げて再度驚く少年。
めっちゃイケメン~!?
隣にいたのは予想外の美形紳士で、少年は仰天してよろめいた。
「大丈夫?」
「あ、はい……すいません」
少年が補助されて詫びると、紳士はニッコリした。
ドキンっ! と心臓が高鳴る少年。彼は沸いたことのない感情と葛藤した。なんか今ドキッとした……
やがて到着したバスに乗車すると、吊革に掴まる先程の紳士のことが気になって、チラ見する少年だった。自分もその横の空いていた吊革に掴まると、走り出したバスに揺られながら悶々とする。
寒いはずなのに、逆に熱くなってきた……
てかこの人、なんでオレに抱き付いて来たんだろう。
やさしい“痴漢”?
と苦笑する少年だった。
ある夕方。少年が電車から降りてバス停に向かうと、途中で雨が降ってきた。雨脚はそれほど強くはないが、待っている間に結構濡れそうだ。引き返して近くのコンビニでビニル傘を買おうか悩んでいると
「大丈夫?」
すっと誰かが傘に入れてくれた。見上げるとあの紳士がいた。
「あ、どうも……」と少年はその紳士に向かってペコリとお辞儀した。
てかこの人、気配を感じない。
こんなにイケメンなのになぜか存在感が…
まさか“幽霊”?
オレにしか見えてないとか?
怖くなった少年は恐る恐る手を伸ばし、そーっと紳士の腕に触れてみた。つん。
「何?」
「あ、すいません!」
紳士が振り向き、手をぶらぶらさせて誤魔化す少年。どうやら幽霊ではなかったか、と少しほっとする。そのまま一緒にバスを待っていると紳士が切り出した。
「バス来ないから車で行く?」
「え? 車あったんですか?」
「うん、送ってくよ」
「あ、ありがとうございます」
じゃあなんでこの人はバス停にいたんだろう?
不思議に思ったが、少年はその好意に甘えて、紳士の車に乗せてもらうことにした。
歩いて近くの駐車場までやって来る。
「あの」
「ん?」
「なんで車あるのにバス停にいたんですか?」
まさかオレのため……とは言えない少年だったが、ちょっと期待していると紳士は言った。
「そう、君のため」
「え、心が読めるんですか!?」
「そう顔に書いてあるから」
「?」
少年は焦り、車の天井に付いたミラーで、さっと自分の顔を確認する。
「冗談だよ。君面白いね」
「じゃあ、なんでなんですか?」
真面目な顔でそう尋ねる少年を見て、紳士が「クスッ」とせせら笑う。
「知りたい?」
「知りたいです」
紳士はふわっとした声で呟くように言った。
「なんとなく」
「なんとなく?」
「そう、なんとなく」
腑に落ちなかった少年は、ただただ何度も首を傾げるしかなかった。何考えてんだろう、この人。
最寄りのバス停が同じなので、とくに案内せず家の近くまで来れた。少年は結局、家から歩いてすぐの場所まで送ってもらった。
「ありがとうございました」
言って車から降りる。
それから気付く。
「あ、やべ。名前訊くの忘れた!」
数年後――
あの頃の少年は社会人になっていた。彼は車でそこを通りかかり、ふと思い出す。
あの人はなんだったんだろう。ただのやさしい紳士?
それとも……
やさしい“痴漢”?
最初のコメントを投稿しよう!