やさしい時間 

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やさしい時間 

 6月に入ったある朝のこと。学生は今日から半袖の夏服に一斉に衣替えだ。この時期は温度変化が激しい。朝はまだ肌寒く感じられた。一人の男子高校生がバス停にいた。一番乗りなので他に人はいない。彼は半袖シャツにズボンという定番の学生服姿で、足元に鞄を置いてバスを待っていた。肩を竦ませガタガタ震えていると 「大丈夫?」  背後から声をかけられ、少年は後ろから抱き締められた。 「え、あ」  少年は戸惑うも  温かい……  その温もりに身を委ねる。俯くと自分の肩の上に見えたのは、大人の男性と見られる大きな手だった。その手の主は言った。 「衣替え?」 「はい」 「高校生は大変だね。まだ寒いのに」  低くてやさしい声だった。  めっちゃいい声!?  そんな声で話しかけられ、少年は心地良くなる。  ついでに恥ずかしさでなんか身体中が火照ってポカポカしてきた……  少年が高揚していると   彼らがいるバス停に向かって人が歩いて来た。  やっべ!?  少年は慌て、背後の男性がすっと腕を解く。  すると  あ、やっぱ寒い……  背中が寒くなりぶるっと震える少年だったが 「?」  変わりに今度はピタッと横に密着してくる男性。  うわ、と横を見上げて再度驚く少年。  めっちゃイケメン~!?  隣にいたのは予想外の美形紳士で、少年は仰天してよろめいた。 「大丈夫?」 「あ、はい……すいません」  少年が補助されて詫びると、紳士はニッコリした。  ドキンっ! と心臓が高鳴る少年。彼は沸いたことのない感情と葛藤した。なんか今ドキッとした……  やがて到着したバスに乗車すると、吊革に掴まる先程の紳士のことが気になって、チラ見する少年だった。自分もその横の空いていた吊革に掴まると、走り出したバスに揺られながら悶々とする。  寒いはずなのに、逆に熱くなってきた……  てかこの人、なんでオレに抱き付いて来たんだろう。  やさしい“痴漢”?  と苦笑する少年だった。  ある夕方。少年が電車から降りてバス停に向かうと、途中で雨が降ってきた。雨脚はそれほど強くはないが、待っている間に結構濡れそうだ。引き返して近くのコンビニでビニル傘を買おうか悩んでいると 「大丈夫?」  すっと誰かが傘に入れてくれた。見上げるとあの紳士がいた。 「あ、どうも……」と少年はその紳士に向かってペコリとお辞儀した。  てかこの人、気配を感じない。  こんなにイケメンなのになぜか存在感が…  まさか“幽霊”?  オレにしか見えてないとか?  怖くなった少年は恐る恐る手を伸ばし、そーっと紳士の腕に触れてみた。つん。 「何?」 「あ、すいません!」  紳士が振り向き、手をぶらぶらさせて誤魔化す少年。どうやら幽霊ではなかったか、と少しほっとする。そのまま一緒にバスを待っていると紳士が切り出した。 「バス来ないから車で行く?」 「え? 車あったんですか?」 「うん、送ってくよ」 「あ、ありがとうございます」  じゃあなんでこの人はバス停にいたんだろう?  不思議に思ったが、少年はその好意に甘えて、紳士の車に乗せてもらうことにした。  歩いて近くの駐車場までやって来る。 「あの」 「ん?」 「なんで車あるのにバス停にいたんですか?」  まさかオレのため……とは言えない少年だったが、ちょっと期待していると紳士は言った。 「そう、君のため」 「え、心が読めるんですか!?」 「そう顔に書いてあるから」 「?」  少年は焦り、車の天井に付いたミラーで、さっと自分の顔を確認する。 「冗談だよ。君面白いね」 「じゃあ、なんでなんですか?」  真面目な顔でそう尋ねる少年を見て、紳士が「クスッ」とせせら笑う。 「知りたい?」 「知りたいです」  紳士はふわっとした声で呟くように言った。 「なんとなく」 「なんとなく?」 「そう、なんとなく」  腑に落ちなかった少年は、ただただ何度も首を傾げるしかなかった。何考えてんだろう、この人。 最寄りのバス停が同じなので、とくに案内せず家の近くまで来れた。少年は結局、家から歩いてすぐの場所まで送ってもらった。 「ありがとうございました」  言って車から降りる。  それから気付く。 「あ、やべ。名前訊くの忘れた!」  数年後――  あの頃の少年は社会人になっていた。彼は車でそこを通りかかり、ふと思い出す。  あの人はなんだったんだろう。ただのやさしい紳士?  それとも……       やさしい“痴漢”?
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