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聞いたことのない低い声が「で、」と話しだす。
「いつならいいって?」
「明日はだめだよ、木曜日だからね」
「何かあるのか」
「かわいい後輩がいるんだ。いつも木曜に来てくれる」
帰ろうと思った。今すぐに。これは、聞くべきでなかった話だ。
音を立てないように足を後ろに動かした。先輩たちのいる縦向きの書架から離れて、横向きに並んだ書架の間を慎重にすり抜けていく。ほこりと古い紙のにおいが薄らいで来たところで、肩を書庫の柱にぶつけた。びっくりして手を滑らせて、抱えていた本を思いっきり落とす。
床に向かって開いて大きく音をたてる本に慌てて顔を上げると、先輩とばっちり目が合った。最悪だ。
「すっ、すみません! 何も見てないので!」
最悪だ。最悪だ。
先輩はじっとオレを見てから、にっこりと笑った。愉快そうに薄く開いた黒い目も、わざとらしいほどに垂れた眉も、オレが知っているものとは違う。
「いけないね、藤井君。大きな声を出しちゃ」
いつもよりゆったりと話す先輩は「ここは図書室だからね」と付け足した。
床につぶれたままの本を見る。そうだよ、ここは図書室なんだぞ。
拳に力が入る。
「だったら、キスはいいのかよ!」
叫んだ勢いで図書室を飛び出した。ネクタイをゆるめて、一番上まで留めていたシャツのボタンを外して、大股でかかとを突き出して歩いた。
夢から覚めて良かったんだ。むしゃくしゃしたままの心に言い聞かせる。完璧な人間なんて存在しない、素敵な人間なんて幻だった。小学生でも見ないような夢、中学生でさえ諦めてそうな憧れ、そういうものから目を覚ますことができただけだ。
「夢?」
廊下に響かないほど小さな声で呟く。口にして気付いた。その夢は、先輩が見せてきたものじゃない。オレが勝手に見たものだ。
「くそっ」
撫でつけていた髪をかき回す。なんでこんなに腹が立っているのか、考えるのも嫌だった。
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