20.暁に綴じたファンタジア

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 奏でた一音に僕の心は打ち砕かれた。  彼が肌身はなさず持ち歩いていたハーモニカ。そこに息が吹き込まれたとき、ぞわり。背筋が凍った。凡庸でありふれて、取るに足らないはずの人間。その評価が甚だ間違いであったと、痛烈に思い知った。  一音、解き放たれる度。世界が震える。連なって、重なって旋律になれば。それが世界の全てを塗りつぶす。唄う旋律は美しく、穢れがない。心から音を楽しむ、無垢なる想いだけが築ける世界。  特別優れた技巧があるわけでもないのに。その演奏は、音楽とそれを聴く僕を結びつけて一つにする。鼓膜を揺らしたメロディは、脳を震わせ、鼓動と重なり、身体を、心に染み渡る。奏でる音が高らかに笑えば、僕の手足は喜び弾む。奏でる音がしめやかに泣くのなら、僕の瞳は滴を落とす。  今まで聞いた数多の音楽、そのどれとも彼の演奏は違った。音の彩る世界へと聴いたものを誘い、奏でた夢で心をとらえる。まるで魔法のようだった。  背筋を抜けた寒さは、心が、魂が震えた証拠。うまく動かない身体と、認めたくない感動に打ちのめされて、世界が大きく揺らぐのを感じた。  怖くなった。オリファという存在が。僕が持ち得ぬ、天性のギフトが。  その無邪気で屈託のない音楽が、僕の世界の全てを奪って塗り替えてしまいそうで。  そしてそれは確かな現実となった。   「――素晴らしいわ!」  手をたたいて喜ぶ母の姿。穏やかな父の表情。  オリファの才能は、父の、そして母の心を掴んだ。  二人の瞳に熱が灯る。ギラギラした真っ直ぐな期待が、一心に彼へと注がれていく。焦りが募る、それは僕に向けられるべきものだったのに。  音楽だけじゃない。彼の飾り気のない心音も、人々の心を掴んで魅了していく。弟も、幼馴染みも、使用人も。彼を慕い寄り集まって、馬鹿みたいに心を許す。  その瞳は分け隔てなく、僕の方にも向けられる。お前なんかと話すものかと、頑なに突き放しても、背を向けても。ずけずけと、躊躇いなく、懲りずに声をかけてくる。  嫌いだ。何もかも気に入らなかった。彼という存在を認めたくなかった。  けれど。拒み、否定するたび、僕の視界はまぶしい光に塗りつぶされる。思い知る。打ちのめされる。練習を重ねて、技術や知識を磨いて、彼以上のものを得たとしても。奏でるただの一音に敵わない。  歪な感情が渦を巻く。世界ぐらぐらと揺らいでいく。このままでは、僕の意義を果たせない。父の、母の望み。それらを託され、成就させるのは僕であるはずなのに。奪われてしまう。僕の存在価値がなくなってしまう。  足掻くたび、指先が動かなくなっていく。メロディを奏でても心は全く躍らない。ただ底にある譜面をなぞるだけ。音が重く、鈍く。沈んでいく。    まぶしかった。  自由に、屈託なく、楽しいと心から歌うメロディを奏でる。そんな彼がまぶしくて。憎らしくて、羨ましくて。  目を閉じたくて、たまらなかった。
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