28.テンポ・ルバート

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 眠れない夜だった。窓の外からこつこつとガラスを叩く音に呼ばれた。  こんな時間にいったいなんだというのか。訝しむとともに、とうに尽き果てたはずの期待が蘇る。  ――もしかしたら、ラグが帰ってきたのかもしれない!   マッチの先端で揺れる、その程度の光。けれど期待を抱かずにはいられなかった。隣で眠るソニティアを起こさないようにベッドから降りると、音のした窓へと走り寄る。見ると、凍り付いた窓ガラスの奥に一羽の鳩の姿。降り積もる雪と同じ真っ白な羽をしている。すぐに窓を開け、室内へ迎え入れる。見知らぬ鳩だ。しかし、どこか懐かしい気配を連れていた。足には何かが紐で括り付けられている。   「ごめんね」  触れた身体は雪に濡れて氷のように冷たい。しっかりと結ばれた結び目を解き、荷を外してやると、鳩はくるると喉を鳴らした。 「ちょっと待ってて」  身体を拭いて暖めてやろう。そう思いタオルを取りに引き出しへ向かう。しかしその隙に鳩はばさりと翼をひろげて、窓から飛び出してしまった。   手を伸ばすも、もちろん届かない。あっという間に白い身体は雪の舞う夜の中に溶けて見えなくなってしまった。  きっともう、戻ってくることはないのだろう。そんな直感が胸を締め付けた。果ての見えぬ夜の空へと伸ばした腕を下ろして、諦めとともに窓を閉める。飛び立ってしまう前にこうしておけば良かった。後悔にうなだれた視線は、手の中に残ったかすかな重さに止まる。片手に収まるほどの大きさの鍵がひとつ。  鳩の足に括り付けられていたものだ。これ以外にメッセージもなにもない。しかし自然と心に浮かぶものがあった。小さな鍵を握りしめ、上着を羽織るとわたしは静かに寝室を後にした。  夜の廊下を歩いていく。  突き当たり奥、ラグが仕事場として使っていた部屋だ。家の中で鍵のかかった部屋と言えばここしか思い当たらない。 「だいーじなもんがいっぱいあるから立ち入らないように!」  そんなラグの言いつけを殊勝にもわたし達は守っていたので、普段からあまり近づくことをしていなかった。  今思えばどうして、素直に言いつけに従っていたのか。なんの変哲もない、一般的な扉の錠など盗賊にとって容易く開けるものだというのに。我ながら不思議なことだ。  そんな思いを頭の隅に追いやって、目の前に意識を戻す。黙する扉にはしっかりと鍵がかけられている。鍵穴に差し込むと、思った通り、音を立てて錠が開く。
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