28.テンポ・ルバート

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 御者の名はカート・マーブルといった。  彼は十年以上馬車を繰るベテランであった。馬の扱いに長け、確かな腕を持っていたが、寡黙で愛想が悪く、人付き合いが得意とはいえない、そんな人物だった。そのため、彼の起こした事故、そのすべてが彼の過失によるものだという判決に疑問を呈するものは誰一人として存在しなかった。  ……果たして、本当にそうなのだろうか。本当にカート・マーブルは弁護の余地がないほど、冷淡で身勝手な愚か者だったのだろうか。  ラグは調査を開始した。マーブル本人や、彼をよく知る肉親・故郷の友人や仕事の雇い主から話を聞き、その人となりを正しく調べあげた。そしてそれは結果として、警察による捜査の粗を浮き彫りにした。 「彼のような男がそんな事故を起こすはずがない!」  ラグの訪ねた人々は決まって、そう驚き、憤慨した。  彼らが語るマーブルは責任感が強く、そして真面目な男であった。御者の仕事に誇りを持ち、経験や技術に驕ることも惰性に流されることもしない。規則を遵守し、想定外の事態への備えも怠らない。馬車の運行ルートは徹底的に頭に叩き込み、町独自のルールや、緊急時の変更ルートもきっちりと調べ上げていた。事故や遅刻からも無縁で、仕事に穴をあけることは一度たりともなく。そのため、仕事相手からの信頼も篤い。多くの積み荷を運ぶ馬車にとって、車輪の点検整備は命綱であり、それをしっかりと理解している彼は車両の点検整備も毎日欠かすことがなく行っていた。ねじの一つに至るまで、光沢が出るまで磨き上げており、同業者もそこまでする必要はないと笑っていたほどの徹底ぶりだった。  さらに、マーブルは禁酒を誓っていたのだという。彼はたった一口酒を飲んだだけですぐに顔を赤くし、目を回してしまうほどの下戸であった。ゆえに、御者を生業としている限りは何があっても酒を飲まないと宣誓し、十年以上遵守していたのだそうだ。  そんな彼が、自らの不始末によって事故を起こすなどありえない。皆口々にそう言い、判決に疑問を持っていた。しかし。事故当時、車両のねじには緩みがあり、マーブルの呼気からは多量のアルコールが検知された。それ自体は紛れもない事実なのである。  マーブルと親しいもの達の声は、あきらかに事故を起こした迂闊な加害者としてのマーブルとはかけ離れている。二つの大きな隔たりは、大きな違和感となって目の前に浮かび上がった。  あの事故は、本当に単なるマーブルの過失だけに原因があるのだろうか。
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