28.テンポ・ルバート

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 警察が断じたように、マーブルはたまたま前日に酒を飲み、たまたま車両の整備を怠ってしまった、それだけなのか。真面目な技術者の一時の気の緩み。本当にそれだけが、あの事故の引き金だったのだろうか。  そうであるのならばなぜ、マーブルは己の誓いを破り、揺るぎなかったはずの矜持を棄ててしまったのか。そうするだけの何かが、あの日彼の身に起きたと考えるべきではないのか。  あの日の彼に何が起きたのか、その如何によってあの事故は単なる『度重なる不運が生んだ悲劇』ではなくなる。それが明らかになれば、マーブルの事情を考慮することなく事故を結論づけた警察の捜査不足が明らかになる。  マーブルにどんな事情があったとて、ルバートの命を奪った事実に変わりはない。その責自体は彼が負うべきものである。しかし、誰も知り得ぬ隠された事実が存在するのならば、償うべき罪の形は変わってくる。  その答えを知るために、ラグはマーブルへの接触を試みた。留置場へと赴き、マーブル本人から話を聴くために。事故当時のこと、そして前日の夜のこと。彼の身に何が起きたのか。すべての真相がそこに隠されていると信じて。  しかしそれが叶うことはなかった。カートは事故の判決が言い渡されるよりも前に、留置所で自ら命を絶っていた。    すべては永劫に閉ざされた闇の中に消えてしまった。  書き記した手帳の文字は震え、ひどく歪んでいる。  死人に口無し。マーブルが命を絶ったことで、真相を語れる人物はいなくなってしまった。しかしそれは同時に、自らの膝元でその死を許した警察への不信感を鮮明にさせた。彼らはまるで、マーブルを悪役にしたがっているようではないか。マーブルの事情には言及せず、彼を加害者にすることですべての罪を着せ、この事故を事故として終わらせようとしている。  そう仮定すると、すべての見方は変わってくる。警察は何かを隠したがっている。たとえばそれは大きな悪意。裏で糸く何者かの存在があり、その意図によってマーブルは陥れられたのではないか……彼は自分の意志とは関係なく酒を飲まされ、故意にタイヤのねじを緩めた車両に乗らされたのではないか……。  立ちふさがった断絶は、彼の中に脈打つ熱き胎動をより激しく燃え奮わせた。それは怒りであり、悲しみであり、嘆きであり、それらを焼べることにより一層に盛る、追求の光であった。  目の前の道が絶たれたのなら、別の道を探せばよい。ラグは改めて、事故当時の状況を一から調べ上げることにした。
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