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29.月影オーバーチュア
バルフリーディア。
音楽の世界においてその名を知らぬものはいないといわれるほどの名家。それだけではない。ミララにとってはこの数ヶ月、共に寄り添い音楽を奏でた大切な人の名であった。
ミレイの口から紡がれた過去は、これまでの自分の人生がどれほど恵まれたものだったかをミララに痛感させるには十分であった。温もりさえ知らず、明日すら見えない世界で生き延びた末に出会えた安息。それすらも奪う嵐の中で、それでも果敢に今日までを二人は生きてきたのだ。
今やミララにとってもミレイとソニティアは家族同然の大切な存在だ。その二人の過去をこうして打ち明けてもらえたことは嬉しくもある、しかし、その果てに紡がれた名前がもたらす意味。それを認めたとき、記憶に輝くこれまでの日々がすべて瓦解してしまいそうな恐怖が身を竦ませた。
こわばるミララの表情。そこから心中を察してか、ミレイが寂しげに口元を歪ませた。
「……どうしてその名が出てくるのか、これまでの話とどう結びつくのか。不思議でしょうけど。でも、これはラグが、一人のジャーナリストが命を懸けて追い求めた情報。嘘偽りなんてひとつもないの」
ミレイは語る。
バルフリーディアの名を世に知らしめたのは、当主であるアイザックという男だった。貧しい家庭で育った彼であったが、たゆまぬ努力と研鑽の果て、ついに世界にその音楽の才を認められた。それからは瞬く間に一流の音楽家の道を駆け上がっていった。
繊細で美しく、それでいて時に雄大、時に軽快。彼の生み出す七色の音色は多くの人の心に響き、震わせた。魅惑の音楽、それだけではなく。けして恵まれた環境で育ったとは言えぬ青年が、努力でもってその才を磨き上げ、王道を駆け上がるサクセスストーリーは多くの人々に夢と希望をもたらした。そんな背景もあって、アイザック・バルフリーディアが世に出てから時代のスターとなる日まではそう遠くはなかった。
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