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神社を背に長い階段を見下ろすと、僕は鈴香の右手を握った。苔の生えた不揃いな階段を、躓かないようにゆっくり下る。
指輪を外した左手の薬指、そこに絡まる彼女の華奢な指に、違和感を感じながら、手を引いた。
僕は、何をやっているんだろう。
階段の途中に椿が枝を伸ばしている。僕達はそこで立ち止まり、俄に赤く染まり始めた空を見た。
「……雄介さんは、何をお願いしたんですか?」
「鈴香の幸せかな」
彼女は何も言わず、ただ僕の手を強く握った。
僕は罪の意識を感じながらもこの関係を続けて来たことを、後悔していない。これは彼女のためだと何度も自分に言い聞かせて来た。
彼女はある日、事故で記憶の大半を失った。
戸惑いながらも彼女の両親は、僕に電話を掛けて来た。寝言で言った僕の名前に一縷の望みを持ったらしい。
僕は妻に事情を話して病院に駆け付けると、病室のベッドの上にいた彼女は、僕を見て言った。
「ごめんなさい、雄介さん。心配掛けて」
僕は記憶の仕組みは分からない。しかし彼女は、おそらく僕を恋人と思っていることくらいはわかった。
しかし、それはもう、数年前のことだ。
医者が言うには、鈴香は心も頭の中も、不安定。大きなショックを受けると、また記憶を失うこともあるらしい。
僕は、さっき神様にお願いをした。
『神様、どうか彼女に記憶を返してあげてください』
僕は罪の意識と、ごまかし切れない彼女への愛しさから、逃げたかった。
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