傘の思い出

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傘の思い出

「ねぇ兵藤君は学校で落としものなんてしたことないでしょ」  彼女に傘の中で尋ねられたことがあった。 「そうだったね」  幼い頃を振り返って答える。 「兵藤君って凄いな。あなたみたいにものを大切に出来る人を他に知らないよ」  「そう? 凄いなんていう人は初めてだな。俺が物を大切にするのは、ただの性分だよ」  嘘を吐いた。性分なんて理由じゃなかった。  バスを待つ人の声が耳に入る。ようやく大きな車体にオレンジのランプが見えてくる。バスが着くと待っていた人々が次々と乗り込んで行く。雨宿りの間に、ずいぶんまとっているジャケットも乾いたようだ。座席で窓にはりつく雨粒の中の光を見ながら、帰ってからのルーティンを頭の中でシミュレートする。徐々にさっきまでの嫌な気分が静まっていく。  日曜日は自宅マンションから遠い、喫茶店で読書をするのが常だった。マスターのブレンドコーヒーを口にすると、会社でのストレスが軽くなる気がした。新刊の文芸誌も読み応えがあっていい休日を過ごせたと思っていたのに、最後に雨に降られるとはついていなかった。  涼子のことまで思い出すなんて、想定外だった。だいたい俺が落としものをすることが、イレギュラーなんだ。昔から予定外の出来事には弱い。不安を呼び心を乱す。  バスを降り、帰宅する。男の一人暮らしにしては片付いた部屋なんじゃないかと思う。  イライラしていた。ハンドソープで念入りに手を洗い、洗濯かごにジャケット、カットソー、パンツを投げ入れた。完全に乾いていない身体が不快だった。温まりたくて熱めのシャワーを浴びる。トニックシャンプーで洗髪する。シトラス系の香りのボディソープで体をゆっくりマッサージし終える頃には、冷静さも戻ってきた。  バスローブに着替え、冷えたビールをグラスに注ぐ。なんで、楽しくもない飲み会で涼子との思い出の詰まった傘を落としてしまったのか。  落としたと気付いてすぐに、居酒屋に連絡した。それらしい傘は預かっていないと申し訳なさそうに店員が答えた。もしかしたら、戻ってくるかもと思っていたのでダメージは大きかった。
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