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飲み会での出来事
あの日、俺はおかしかったのだと思う。飲み会では、普段叱責している新人の山下透の隣の席だった。彼は、口下手で営業トークもつたない。俺たちが勤めている食品会社では、新製品を売り込むことも重要な仕事だ。慣れていないせいだと思うが、営業成績は底を這っている。俺は直属の上司になる。彼の熱心な仕事ぶりも、
「いくら努力したとしても、結果が全てなんだ」
と切り捨ててきた。山下からは当然煙たがられているはずと考えていたのに彼は隣に座った。俺の言葉を気にしていないのか、単に鈍いのか、判断がつきかねた。
「兵藤係長、僕の不出来で迷惑をかけてすいません」
彼は開口一番そう言った。
「飲み会なんだから、仕事の話はなしだ。プライベートの時間がないと息が詰まるぞ」
ビールを山下のグラスに注ぎながら、くだけた口調で話しかけた。
「僕ずっと係長には嫌われていると思っていました。アドバイスありがとうございます。お酌させてください」
「気を使うな。好き嫌いで叱ったり注意するわけじゃないさ。仕事に慣れて部下に伸びてほしいからだ」
気休めを言った。ビールがグラスに満ちていく。
「係長、僕感動しました」
「仕事と仕事外の顔は違うものだ」
そんなやりとりをして、思った通り実直で真面目な奴だと再認識した。同時にちょろくて大丈夫かとも感じた。
思いやりも優しさも涼子が退社した日に忘れてしまったから、見せかけの気遣いだったが、すっかり山下は懐柔されたようだった。俺は社内で仕事ぶりは認められているが敬遠もされている。人を近づけない心の壁を、同僚に気付かれているせいではないかと思うが変わる気はない。彼女を失ってから、仕事だけに邁進してきた。おかげで係長に昇進して部下も出来た。
俺に挨拶以外で話しかけてきたのは山下だけだった。彼が、かいがいしく酒を注いでくるせいでトイレに行きたくなった。同じペースで飲んでいたから、連れションになってしまった。
「係長は優しい方ですね。ずっと静かに話を聞いてくれて、退屈じゃなかったですか? 僕口下手だから、営業トークも上達しなくて。田舎からせっかく出て来たのに、情けないです」
そう言いながら山下は急に俺に抱き付いて泣き出した。こいつ泣き上戸のだったのか。俺はべたべたされるのは苦手だ。男にすがりつかれて喜ぶ趣味もない。それに居酒屋の男子トイレの臭気の中で、いい年した男性が抱き合っているなんて悪い冗談だろ。
「やめろ」
厳しい声を出した。
「すいません。ずっと係長に嫌われていると思っていて。今日の飲み会をきっかけに少しでも関係を改善したかったんです。そしたら、予想外に優しくして頂いてほっとし気が緩んでしまいました。申し訳ありません」
彼は身体をぱっと離して、委縮した様子で詫びた。
「俺は優しい人間じゃない。騙されるな」
そう言って、奴を残して自席に戻ってきた。幹事に多めに会費を払い、店を出た。飲み会に着くまでは、激しい雨だったが帰りにはすっかり止んでいた。彼の庇護したくなるような人懐っこい顔つきをふと思い出していた。イレギュラーがあるといけない。山下のせいで落とし物をしてしまった。
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