百年桜

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『もうあの桜の樹は死んでしまったんだろうよ』  そんなふうに誰かが言っていた。  一年ごと、徐々に花数が少なくなっていたのは知っている。  今年は蕾すらつけない、本当にもうダメなのかもしれないって。  それでもまだ生きているのだと私は信じていた。  そっとその古木の幹に抱き着くと香る桜の樹木の優しい匂い。  腕がまわりきらないほどの大木、通称百年桜。  公民館の前にある大きなソメイヨシノは樹齢百年とも、それ以上とも言われている。  私はあなたのことを詳しくは知らないけれど、とっても似ている気がするの。  いつも夢に出てくるあの樹に。  この大きく突き出たコブや、幹の曲がり具合。  夢の中のあの桜の樹は枝をしならせる程ふんだんに花を咲きほこらせていて、今のあなたとは違うけれど。  幼い頃から見た夢は、幾度となく。  雲一つない青空、桃色の花びらがひらひらと舞い散り始めた春半ば。  大きな桜の樹の下で、は出会った。  交わす言葉は少しだけ。  それでも一緒に過ごせる、ほんのひとときが陽だまりのように幸せな日々だった。  時は流れまた春が来て、満開の桜が咲きほこりまた散りさって。  其処(そこ)らあたりが、まるで桃色の絨毯のように染まった春の終りのこと。  と交わした約束、一度きりの口づけは。  さよならの涙の味がした。      この夢はどんな意味があるのだろうか。  胸の奥がぎゅうっと締め付けられるほどの切なさ。  それはまるで現実で誰かに恋をしたような気にすらなるほど苦しくて。  繋いだ指先の温もりですらすぐ側にあったと思うほど。  目覚めてはいつも泣いている。  百年桜、あなたは知っている?  この夢の意味を。    白いシャツを着て笑うと目が細くなる彼を私は知らない。  なのにどうして、鮮やかに、色鮮やかに。  目を(つむ)ると、その人の首にある黒子(ほくろ)の位置さえ思い出せるほど何度も夢を見た。  短く髪を刈ったあなたがベージュの隊服に身を包み敬礼をした。  その姿に意味を知り、泣き崩れた私を。 『ボクは君を守りたい、だから』  だから行くんだよ、と。  泣きながら微笑むあなたに、止まらない私の涙。  交わした小指の約束は遠い遠い未来に想いを()せて。  さよならの口づけを交わしてすぐに我に返ったのは。  耳をつんざくようなサイレンの音。  見上げた空に飛んでいた何基もの飛行機。  バラバラと落下してくる銀色の筒。  大丈夫だよ、と抱きしめてくれたあなたと恐怖で動けなかった私。  私たち、あれから一体どうなったんでしょうか?    ねえ、百年桜。  あなたは知っているの?  あれは誰?  あれは私?  尋ね見上げた瞬間、ざわっと春風は吹き上げて。   『いつか、桜の樹の下で。いつの日か逢いましょう』  聴こえてきたのはあの時の約束。    だから、だからね?    桜の樹の向こう、歩いてくる男の人が私を見て足を止めた瞬間に。  ―――ずっと、あなたに会いたかったの。  私の心の中でが泣き叫ぶ。  刹那。  抱きついていた百年桜から伝わる温かさに、その手を離し。  驚き見上げた枝のあちこちに狂い咲くように息吹きだす蕾。  蕾は見る見る花開き、枝がその重みでしなだれて。  そうして、いつか見たあの光景のように。  満開の桜が雲一つない青空に桃色の花びらを風にそよがせる。    その男の人は呆けたように咲きほこった桜を見上げていて。  嬉しそうに微笑んで。  それからじっと私を見つめた。  優しく懐かしい瞳で。  やっと会えたね、唇がそんな風に動いたから。  私は泣き笑いして。  確かめ合うようにお互いに歩みを進める。  首筋の黒子、笑うと細くなる目。  涙の向こうで笑うあなたに、やっと会えた。 【完】
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