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3
「ヘッド、ここは見張られていたようだ」
「そうですか」
ヘッドは何も無かったかのようにテーブルに調達してきたものを並べはじめる。何も言わないことが返って気になった。
「ヘッド、さっきのは……」
「今は聞きたくありません。まずは腹ごしらえしましょう」
弁解をたんっと刃物で切られたようにリチャードは続きの言葉を飲み込んだ。
干した杏の実に塩漬けし、燻製した肉の塊。黒っぽいパンと水。いつもの食事に比べれば貧しいことこの上ないが、こんな山奥で調達してきたことを考えれば驚くほどの充実ぶりだ。
ヘッドは淡々とパンを切り、これまた肉を切って上に乗せる。それをどこから見つけてきたのか、端の欠けた皿に杏の実を一緒に盛りつけてすいとリチャードの前に滑らせた。
「ヘッド」
「食べてください」
取りつく島もないヘッドの様子に、短いため息を漏らし、リチャードは黙々と黒いパンをもそもそと口に入れる。味なんて分からない。ただ、気分がどんどんと落ち込んでいく。とうとう食べ続けることができなくなってパンを持ったまま手はテーブルの上に落ちる。
「口に合いませんか」
「わたしは……バカだ」
返ってきた言葉の意味にヘッドが眉を顰める。どういうことなのか尋ねようとする前にリチャードが口を開いた。
「わたしは物見遊山のつもりじゃ無かった。でも、ルークに言われて分かったよ。おまえと二人の任務で浮かれていたんだ。そして大事なことをいくつも見逃していた」
燃えるような赤が目の前に広がる。項垂れたリチャードの頭に触れようとしていたヘッドの腕は途中で止まる。
今の彼は上司で指揮官だ。だが、さっきのルークの表情を見て、簡単に唇を奪われている様に言いようのない苛立ちを感じてしまった。ルークとリチャードには自分には入りこむことのできない繋がりがある。
そこには百年という年月以上に追い付けない二人の歴史がある。二人のそれが情愛でなくたって嫉妬する自分は大人げない。
リチャードが初めて歩き、初めて喋る。少年時代の彼を、大人になったばかりの彼を。全部知っている――それだけで胸を掻きむしりたくなる。
その頃自分はまだ姿はおろか、母になる人もこの世にはいなかった。そのことさえ許せない。
そんな狭量な自分に一番腹が立っていた。
「愚かなのはわたしです。先程までの態度をお許しください」
降ろしていた手にリチャードの手が伸びてヘッドの手を包む。そこから柔らかい熱が伝わってきて、ぱりんと小さな音が身の内から聞こえた。
それは被ってきた薄皮が割れた音。割れたところからとろりとしたものが流れてくる。それは呆れるほど甘い。そのくせどこかに舌を差す毒を持っている。
それの名前を自分は知らない。ただ、それはずっと心の中で一つの言葉を叫んでいる。
「……あなたを独り占めしたい」と。
それを口にしたら、楽になると思いながら、自分はそうはしないとヘッドは苦笑を浮かべた。一方、ヘッドの機嫌が直ったとリチャードの体からは緊張が解ける。
「ヘッド、さっきの使い魔のこと。どう思う?」
「わたしが気にするのは、つけられたこともですが、その後のことです」
「後?」
ヘッドに言われてリチャードは、彼の言わんとすることに気づく。
「ルークか」
短いリチャードの言葉にヘッドは頷く。
「あいつにまんまと嵌められたのかっ」
きっと端から枢密使が州境を超えるとわざと敵に情報は漏れていたに違いなかった。続いて放たれる使い魔。ルークはここで罠を張っていたに違いない。
ルークはきっとネズミの体に入りこんで掛けられていた魔術の痕跡を追って行ったのだ。今頃はネズミの出所を突きとめているかもしれない。
体の良い餌扱い。よくも上級魔導師二人をこんなことに使ったもんだと呆れるばかりだ。この企みを果たしてガリオールは知っていたのだろうか。
「きっとルーク様の独断です」
きっとリチャードが辿りつくだろうと阿吽の呼吸でヘッドが応えた。
「どうする?」
「そうですね。向こうが動くまでこちらもへたに動けなくなりました」
ルークが暗躍していると知ってしまえば、こっちがへたに動くとかえってルークにも危険が及ぶかもしれない。
――まったくどうしていつもいつも勝手なことをするんだ。
苛つくリチャードの前でヘッドは椅子から立ち上がり、反対側に回ってくる。つまり、こちら側に。
「ヘッド?」
「明日まで公用は特に無いようですから、私用に移らせていただこうと思いまして」
「それはどういう……?」
思う間も無くヘッドの腕が椅子の背ごとリチャードを抱くと、振り向いた状態のまま顎を掬われた。
「こういうことです。さっきのわたしの気持ちをお教えしますよ、体に」
低い声にリチャードの喉がこくんと上下した。
納得しているように装っている中身を見せてあげると言ったら、リチャードはどう言うだろうか。自分ではどうすることも適わないことまで凜気の対象になっていると知ったら。
彼の赤い髪の一本一本、吐く息や視線の行方までも占有したいと思っていると言ったら。
今までみたいに笑えないだろう。先の無いこれからの年月、こんな醜い執着を受けながら生きなければならないなんて他人事ならごめんだとヘッドは思う。
――あなたが受け入れたから。
あなたも共犯関係なのだと枷をかけたい。
「し、仕事中……だ」
「知ってます」
仕事、それが最後の砦みたいに腕を突っ張って逃れようとするのを力技で抑え込む。リチャードは柔な男じゃない。鍛え上げた体と高度な魔術を操る上級魔導師の名にふさわしい男だ。
頭も良いし、容姿も良い。情に熱く、それが時には暴走してしまうこともある。それが心配で気になって……。
枢密使たちは皆、この上司のためならどんな困難な任務でもやり遂げようと思っている。長年果ての無い寿命を生きている高位の魔導師の中には、感情に乏しかったり人の機微に冷淡になることが多い。
そんな中、明るく生き生きと日々を暮らすリチャードがどれほど部下の士気を高めているか分からない。
歳が遥かに上なのに、支えたいと確かに思っていたはずが。いつからそれに違う意味が含まれるようになったのかとヘッドは考える。
リチャードが落ちた恋の相手が十六歳の下級魔導師だと知ったあたり。それともその少年が成人し、結局選んだのがリチャードでは無く、彼が生まれて初めての失恋に荒れた時だったか。
いや、それはきっかけだったのかもしれない。ずっと自分はリチャードをそういう意味で想っていた。自分でも分からないほど巧みに隠しながら。
「人一人がおぎゃあと生まれて墓に入る以上の間、ずっと手を出さなかったんです。少しは大目に見てください」
後頭部に押し付けられた彼の唇が言葉とともに動く。熱い吐息を感じて、リチャードの力が抜ける。自分の体に回された腕に目を落とすと、太い血管の浮いた逞しい腕が離れないように自分の右手の手首を左手で掴んでいた。
「怖い顔だな、ヘッド。逃げないから、ちょっと離せ」
リチャードの手がヘッドの固く握った手に触れる。
「好きになった期間を言われれば言い返せないが、わたしだって思いは君に負けてないと思うんだけど」
リチャードが「そうだろ?」と屈託なく見上げてくるのを見て、ヘッドは毒気を抜かれたように腕を緩めた。
何百年も生きて来て。
人の後ろ暗い面から起こす事件を探る役目を負っているはずなのに。この人の心の中は少しの淀みもないのだろうか。
この人の赤は、きっと殺戮の血の色じゃなく温かい血の色なのだ。
「じゃあ、寝台に行きますか」
「い、今から……か?」
赤くなって慌てるリチャードの手を引いてヘッドは立ち上がった。
「だって、あなたは逃げないのでしょう?」
「わたしは敵前逃亡なんかしないっ」
――わたしは敵ですか?
思わずヘッドは噴き出してしまう。
さっきまで、愛することまで暗い闇のように考えていた自分がバカらしくなる。この人を愛するということは光のご加護を受けることと同じかもしれない。
「じゃあ、真正面から向かってきてくださいね」
「え? い、いや、今のは例えであって……」
「嘘だったんですか」
そう煽ってやれば「ついて来い」とヘッドの腕を振りほどいてリチャードは鼻息も荒くドスドスと歩いて行く。燃えるような髪が揺れる背中にヘッドは笑みを零した。
「そっちの脚がいいな」
「え? これですか?」
「その右のやつ」
はいはいと焼かれた大きな蟹の脚を取って殻を割って中身を取り出すと、待ってましたというように長くて節だった手が伸びて取りあげていく。
「ギルド州のラナ湖といえば蟹だよね。これ食べなきゃここに来た意味がないでしょ」
溶かしバターの入った器に浸して蟹の身を旨そうに食べる目の前の男に、殻を剥いていた男がため息をついた。
「だったら、わたしはさっきから全然食べてませんけど。ルーク様、ここに来た理由がこれだったとか言うんじゃないでしょうね」
ニコルは美味しそうに蟹を頬張るルークを見る。ニコルは上級魔導師の中でも若手だ。いつもは厳しい結界が張られているレイモンドールと大陸を隔てている海峡を渡る船を無事に航海するための水先案内人という仕事に就いている。
ところが、ひょんなことから目をつけられてしまって、何かと引きまわされる目に度々合っているのだ。前に最北の州に行ったときも海産物目当てだったような……気がする。
どうせならガリオール様に目をつけてもらいたかったと切に思うニコルだ。
――それにしたって、あんな凄惨な場面を目にしてよく食欲があるよな。
ニコニコと食べ物を食べている彼はほんの一刻前、ここの地域の特異性を悪用して違法な魔薬の栽培で荒稼ぎしていた州候とそれに加担していた副州宰を事故死に見せかけ、更にその栽培地の大半を魔術で焼き払ってきたのだ。
「まったくわたしも人が良いよね。リッチーとヘッドにいちゃいちゃさせてあげようと忙しいのに一人で働きまくったんだから」
「そこの一人で、の所が納得いきませんけど」
「まあまあ、細かいことはいいじゃない。それより、手が止まってるよ、ニコル」
ハンゲルの廟に帰ったら絶対サイトスのガリオールに直訴してやるとニコルは思いながらも黙々と蟹の身を取り出していく。結局脚の一本も口には入らなかった。
「ニコル、ほら窓を見ろよ」
なんですかとふくれながら窓に目を向けると、灰色の空から白いものが次々と舞い降りていた。
「雪ですね」
初雪……これから四か月の間、レイモンドールは白一色の季節になる。何もかも隠してしまう白い悪魔とこの国では言われているが。
「ね~これで春まで政府側も手が出せないよね。やっぱ普段の行いのおかげだよね」
――悪魔は雪じゃなくてあんただよ。
カラカラと笑うルークの姿にニコルは心の中でそうツッコミを入れながら愛想笑いを返すのだった。
終わり
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