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 トントンと刃物を叩きつける音がして、リチャードの意識はだんだんと覚醒していく。 ぼんやりと見える天井は丸太を組み合わせたもので、ここが山小屋だと思い出す。  廟に居る時は、こんな硬い寝台に寝る事も無く、寝室に何かを煮込んでいる匂いなどする事も無い。にしても妙な匂いだ。お腹……というか、吐き気や胃を変に刺激するのだ。  そういえば、半刻ほど前にヘッドが食べ物を調達してくると小屋を出て行った気がする。「分った」と言いながらまた寝てしまったが、もう帰ってきたのだろうか。  ――しかし……一体なんの匂いだろ、不快だ。  まるで魔術に使う薬草か、動物の干物を煮込んでいるような……。気にしてしまうともう寝てることなんてできない。 「くそっ」  燃えるような赤い髪に手を突っ込みながらリチャードは決心して体を起した。寝台から足を降ろして声を上げながら伸びをする。ヘッドと二人、ギルド州の山奥で妖しい魔術の痕跡があるとギルドの州宰から報告があり調べに行く途中なのだ。  竜道を使えば早いが、魔術を調べに行くという事情で、相手に気づかれるのを回避するために二人は変装し、普通に旅してここまでやって来ていた。  昨日もやっと辿りついたこの打ち捨てられた小屋を片づけ、眠ったのはほとんど夜明け前で、リチャードは崩れるように寝台で寝入っていたのだ。 「ヘッド、悪かったな。何か見つかったか?」  ドアも無い部屋の仕切りから隣の台所へ顔を出すと、思ってもみなかった男がそこにいた。 「お早う、何だか昨日の晩もお盛んだったの? もう昼が近いよ。さあ、飯の用意も出来たことだし座ったら、リッチー」 「なんで君がここに居るんだ」  思わず尖るリチャードの声もどこ吹く風で、かいがいしく粗末な台所で何かを煮込んでいたのは、このレイモンドール国の魔導師の中でも三本の指に入る高位の魔導師だった。 「まあまあ、いいじゃない、そんな細かいこと。それよりリッチーをこんなに疲労困憊させた色男はどこ行ったの?」 「うるさい、疲労困憊したのは旅のせいでヘッドとは関係無い。食べ物を調達しに行っただけだ」  何で朝っぱらからこんなセクハラを受けなきゃならないんだとリチャードの機嫌はどん底になる。  この国の創成の王の息子であるリチャードをリッチー呼ばわりするのはこの灰色の髪の魔導師だけだ。この国の重鎮のくせにこのふざけた男は外見はまだ二十代初めに見える。  齢三百年以上とはとても思えない外見と態度だ。だから厳密に言えば自分より身分が上であるのにも関わらず、敬語なんて使う気にならない。 「で、それは一体なんだ?」  目の前の男がいそいそと鍋から器に注いでいるものを見てリチャードは眉を顰めた。 「しかも、おまえが使っている鍋や器はいったいどこから見つけてきたんだ? ルーク」  ルークと呼ばれた男がえっへんと胸を張って僅かに傾いでいるテーブルに手を向ける。 「リッチーが温かいものが食べたいんじゃないかと思ってさ。どーぞ、召し上がれ」  返事になってない男の声に、更なる嫌な予感を感じながらもリチャードは椅子に座った。 「これは……」 「ああ、それはネズミのスープ。さっきまで小屋の前走ってたやつ。だから新鮮だよ」 「じゃなくて……」  ネズミだということくらい、自分にだって分る。分からないのは何でそのまま入っているのかということだ。スープというか、湯気を立てている器の中で浴槽にでも浸かっているかのような状態のネズミはまったくそのままなのだ。 「例えば皮剥いだり、切ったりとか普通するだろ」 「え? そうなの?」  へええ、そうなんだという感心するみたいなルークの声にリチャードは大きくため息をついた。 「でも、きっと味はいいよ。上に散らしたのは彩も考えてシロツメクサにしました。良い感じだろ?」  そういえば小屋の外にはシロツメクサが生えていたとリチャードは思い出す。 「で、スープは何の味にしたんだ?」 「ネズミしか入れてないけど? 沸騰したお湯に生きたままぶち込んだんだ。すっごい中で暴れてたよ。良い出汁が出てるんじゃないかな」  このままネズミの死体の話なんてしたくない――リチャードは頭を抱えたくなった。 「とにかく食べない?」 「食べるわけないだろ。食べられる色形してないだろ、これは。だいたい何か切ってた音がしたのは何だったんだ?」 「ああ、あれね。なんかご飯の用意してるって感じがしたろ? ずばり、効果音です」  リチャードの問いにルークはすまして答えると器に手を突っ込み、ネズミの尻尾に持って持ち上げてぶらぶらとさせる。  催眠術でもかけるまねごとをしているように、時計の振り子のようにブラーン、ブラーンと大きくネズミが揺れた。 「止めろ、悪趣味だな」 「まだ、分からんとはリッチーも色ボケが過ぎるんじゃない?」 「何が……」  気色ばんで見たルークの手元にあるネズミは――確かに普通ではなかった。変なのはその外見というのでは無く、それがまとっている気配。明らかに魔術の痕跡を見て、リチャードは唸る。なんでこんなあからさまなものを今まで見逃していたのか。 「使い魔か? 誰のだ、一体」  使い魔は上級魔導師なら誰でも使うことができる。生きものならなんでも術をかけて使役できるが、どの生きものを使うかは個人の好みが現れる。  ただし、目の前のルークが主に使うのは動物では無い。彼が使うのは影だ。無機質を使役することができる魔導師などこの男くらいだ。 「さあ。ただ、州境からつけられてていたのか。ここの場所を見張っていたものかで対応は違ってくるだろうな。この一帯にシロツメクサが咲いていることに気づきながらおかしいと思わなかったとは、手落ちと言わざるをえないんじゃないか、リチャード」  さっきまでの笑顔は消え、冴え冴えとした冷たい眼差しを向けられてリチャードは息を飲んだ。  冷涼な気候であるレイモンドールは冬の訪れが早い。まだ雪は降ってないものの、シロツメクサが花を咲かせる季節では無い。  おちゃらけた性格と思われているルークのもう一方の顔の一端が覗く。節だった長い指でつまんだネズミが大きく揺れたと思うとリチャードの頬にべしゃりと当たってテーブルに落ちた。 「ガリオールが、枢密使長のおまえと次席のヘッドをなぜここに送ったのか良く考えることだ。休暇を与えたとでも思っているのか?」 「ルーク、すまない。わたしは……」  廟にいる上位の魔導師が出払ってしまうことを魔導師庁長官のガリオールは嫌がる。枢密使長の他にリチャードは国の結界を守る役目も負っている。それをあえて許したということは、相当に困難な案件。分かっていたつもりだったのに、確かに浮かれていたのかもしれない。 「分ったんなら、何か食べ物ちょうだい。お腹すいて死にそう」 「……は?」  うっかりルークを見直していたが、だいたい上位の魔導師というなら自分より上のルークがいないのはもっと問題があるじゃないかとリチャードは気付く。  ルークは魔導師庁長官とレイモンドール国の宰相を兼任するガリオールに次いで高い地位にいる魔導師だ。  全国にいる魔導師の総廟長という重責を担い、王都であるサイトスに詰めているガリオールの代わりに魔導師の本山であるハンゲル廟を座主に代わって取り仕切り、さらには王立アカデミーの最高責任者という肩書きまで持っている。  本当なら休む暇も無いほど忙しいはずだ。 「ルーク、ここに来る事をガリオールには言って来ているのか?」  リチャードの言葉にルークはへへへと薄っぺらく笑いながら目を逸らせた。ガリオールの了解など取りつけてないのではないかとリチャードは危惧する。 「自分の立場をわかっているのか?」 「うるさい、うるさい。小さいときはあんなにも可愛かったのに」  子どもじみた言い草ながらその内容にリチャードは言い返せない。  確かにルークには幼い頃世話になった。いや、王子出身の上級魔導師の大半はルークの世話になっていると言っていい。  両親の元から離されてハンゲルの廟に連れてこられた時、自分はまだ一歳だった。それほど人手が無い昔、本当にルークに手をかけて育てられたことは間違いない。 「お世話になったのはちゃんと感謝してる」 「おや、いきなり素直になっちゃって。こういうのにヘッドは弱いのかな?」  やおら立ち上がったルークがテーブルに両手を突いて顔を突きだしたためにリチャードは体を引く暇も無かった。 「ん? んんんんっ……」  冷たい唇が合わさってきて慌てて身を引こうとしたリチャードの背中にルークの長い手が回る。  下唇を軽く食まれて上下の唇の隙間を舌でなぞられる。どこまでも冷たい感触に、返ってリチャードの頬に熱が集まった。 「ただいま、帰りました。……な、何していらっしゃるんですか」  そこにガタンと戸が開いて現れた短髪のがっしりとした男の声にリチャードの肩がびくんと跳ねる。 「は、放せっ」  リチャードにどんと両手を相手の胸に突かれ、ルークが「わわっ」と声を上げて後ろに飛ばされる。体格的に言えば、身長はともかく文人系が多い魔導師の中で枢密使は武闘派だ。その長でもあるリチャードも贅肉の無い筋肉質の美丈夫なのだ。 「いいとこだったのに」  目を細めてにまりと笑いながらルークはべろりと自分の舌で唇を舐めてヘッドを見た。  ――わざとやったな。  ヘッドが帰ってくる気配をルークは分かった上で仕掛けたのだろう。 まったくなんて迷惑な。 「あ、実はわたしは別口に用があったんだよ。おじゃましたね、もう行くから」 「食事は?」  腹が減ったとか言っておきながら、ルークは印を結ぶと姿を変えた。魔術はご法度なんではと言いかけたリチャードの前で動き出したのは死んだはずのネズミだった。  ちちちと鳴いたと思うとテーブルからするりと降りて、開けっぱなしになっていた戸口から外に消えた
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