63人が本棚に入れています
本棚に追加
「富樫は上がって行ったんですか?」
「はい、十分ほどおられました」
「失礼ですけど堂園さんのご家族は?」
「半分寝たきりの家内と二人暮らしです」
富樫はこの老人の生活環境を見て殺すことを思い止まった違いない。暮らしぶりに、どこか感じることがあったのだろう。
「堂園さん、もう事件は解決しましたよ。あなたには何の罪もないんです」
「そうですか、それなら刑事さんからこの金を返しておいてください」
堂園は二つの封筒を差し出した。厚い方の封筒には『頼んだ人』薄い方には『ビルの利用者』と書いてある。
「あの、生意気なことを言わせてください。これはいただいてもいいと思いますよ。決して悪い金ではないと私が保証します。受け取ってあげたらどうです」
「長年連れ添った家内が承知しません。そんな金で入院するなら死んだ方がいいと。私もそう気付きました、恥ずかしいことです」
この年代はこうと言ったら聞く耳を持たない、安岡は困った。
「堂園さん、奥さんの体調はどうなんですか?」
「もう二人共疲れました、普通に長生きしても数年です。家内を先に死なせてやることが私の夢になりました。私が動けるうちに看取ってやりたい。私一人なら気楽です。もしも私が先に逝ってしまったら家内は苦しみます。私には甘えて言えることも、介護の人には遠慮します。その苦しみを例え一日でも与えたくはない。今まで真面目に生きて来た、最後に悪に加担したことを後悔しています。正直言うと、刑事さんから罪がないから帰っていいと言われたときはホッとしました。トイレを我慢させるのも辛い、助かりました、ありがとうございます。お金のことはお願いします」
堂園は車から降りた。ビルに手を合わせ一礼した。安岡は気の利いた慰めの言葉も浮かばない。ただじっと老人の後ろ姿を見送った。
CB750は吉野町のアパートの前に停まった。近所迷惑とマーロウはエンジンを切った。
最初のコメントを投稿しよう!