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落とし物
「あーっ、私のクマのストラップがないっ!」
長時間運転を終えて疲労困憊の中やっとソファに体を沈めた俺は、娘の声によって入眠を妨げられた。
子どもにとっては楽しい休日も、親にとっては身も心もちっとも休まらないものだ。
「メイちゃん?あなた落とし物多過ぎるよ!」
ゆっくりと起き上がり娘の顔を見る前に、妻の叱り声が耳に入ってくる。
「だいじょーぶよ!だって、この町には"音霜さん"がいるんだもの」
「音霜さん?何だよそれ」
「あら、お父さんの前でするのは初めてだったかな?まあ見てて」
娘は玄関に向かって目を閉じると、パンパンと手を叩いて声に出し念じた。
「音霜さん、音霜さん。私の大事な落とし物、届けてくださいな」
「小学校で流行ってる都市伝説か何か?」
娘が始めた御呪いを馬鹿らしいと思いながら見ていると、ドアを敲く音が2回響いた。
「こんなご時世に、インターホンも押さずに門の中へ入ってくるとは非常識な奴だ」
30年ローンで手に入れた新築のマイホームを、何処の馬の骨とも知らぬ輩に土足で汚されたくない。
俺は文句を言ってやろうと思い腰を上げて玄関へと向かう。
「いきなり家のドアをノックしに来るなんて、ひじょ……うわっ!」
扉を開くとそこには、満面の笑みを浮かべたおじさんが直立していた。
非常識な奴だと非難するつもりが、その圧倒的な存在感に俺は言葉を失ってしまった。
「ありがとう!音霜さん」
立ち尽くす俺の横を通り過ぎ、娘が謎の男のもとへと駆け寄る。
"音霜さん"とやらの右手には、遊園地でなくしたはずのピンク色をしたクマのストラップがあった。
それを嬉しそうに受け取ると、娘は家の中へと入って行った。
「娘が迷惑をおかけしまし……た…」
愛玩物との再会を果たした彼女の浮かれた背中を見送り、玄関へと向き直ってお礼を言おうとしたが、いつの間にか"音霜さん"の姿は見えなくなっていた。
「さっきの口ぶりからすると、彼に助けてもらったのは初めてじゃないのか?」
「ええ、メイは私の知ってる限り3回は彼を呼んでるわ」
「学校も入れたらもっとよ!」
「まあ、メイったら。音霜さんを頼りすぎて自己管理を怠っていたらダメよ!」
「そういうお母さんだって、この前家の鍵を届けてもらってたじゃない」
「あはは、あれは1回だけよ」
母と娘のいつものアットホームな言い合いが始まった。
2人ともとても楽しそうに会話をしているが、俺は彼女らが"音霜さん"の存在を生活の一部として平然と語るのが不気味で仕方なかった。
「あんな得体の知れない人間をよく平気で頼れるなぁ…」
「あら、あの方はこの町で落とし物を届けるボランティアをしているそうよ。学校や保護者会でも有名人で、知らない住民はほとんどいないと思うわ」
まだ引っ越してきて1年、毎日朝から晩まで仕事漬けの俺にはそんな人の存在など認知する機会もなかったわけだ。
「落とし物ボランティアの、音霜さん……か」
俺は再びソファに腰を沈めると、そのまま後ろへ倒れ込んで漸く夢の中へと誘われることができた。
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