絶体絶命

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絶体絶命

 あれから数日後のことーー  俺は絶体絶命の危機的状況に立っていた。  「ない、ないぞ……!」  感染症対策のために会社が19時には全員強制退勤させられるようになってから、俺は持ち帰り仕事を頻繁にするようになっていた。  時には顧客の個人情報を取り扱った重要な内部資料を持ち出すことも少なくはなかったが……それを見失ってしまったのだ。  「家の中を探してもないということは……」  電車の中ならば、不特定多数の人に拾われた可能性がある。  個人情報の漏洩に繋がる重大な過失、明るみになれば俺の社内での地位は底まで落ちてしまう。  まだこれから子どもの進学、ローンの返済と経済的な不安が多く残っているというのに……  「落とし物で左遷……いや、下手したら解雇だ。そんな恥ずかしい話があるかよっ!」  リビングにある愛用のソファを蹴ると、柔らかさ故に全く手応えがなく、怒りを今度は壁にぶつけようとしたが、新しい家に傷は付けられまいと思い止まった。  「お父さん、何イライラしてんの?」  23時30分にもなってリビングで荒れる父の気配に、娘が目を覚まして起きてきたようだ。  「もしかして、探し物?」  鞄の中身がひっくり返り、テーブルの引き出しも全て開かれているのを見て察したらしい。    「一緒に探してくれ!俺の……いや、俺たちの生活がかかってるんだ」  「それなら、音霜さんに頼んじゃえばいいんだよ」  俺はハッとした。  個人的にはとても信頼できる相手ではないが、妻や娘のように、町中で彼に助けられた人たちがいることも事実だ。  こうなったら、藁にもすがる思いで試してみるしかない。  「音霜さん、音霜さん。私の大事な落とし物を届けてくださいな」  娘がやっていたのと全く同じやり方で、音霜さんを呼んでみた。    「ははっ、きっと落としたのは町の外だ。音霜さんだってそんな場所の落とし物を拾うことは……」  諦めかけた瞬間、玄関にノックの音が鳴り響く。  そういえば、この前のクマのストラップは県外の遊園地で落とした筈だ……  俺は不気味さを感じて恐る恐る扉を開けると、満面の笑みを浮かべたおじさんが茶封筒を持って立っていた。  「それは、紛れもなく探していた資料っ!」  俺は彼の手から封筒を取って中身を確認すると、顧客情報の資料が1枚の抜けもなく全て入っていた。  「ありがとうございましたっ!」  上司や顧客にだってここまで後頭部を見せるほど深く頭を下げたことはないというくらいにお辞儀をした。  どうやって拾って来たのかなんてもうどうでもよかった。  俺は落とし物ボランティアの音霜さんが神様に感じた。  頭を上げると、もうそこには彼は立っていなかった。  「よかったね、お父さん」  「あ、ああ……このことは、学校でも塾でも話しちゃダメだぞ?」  俺は絶体絶命の危機的状況を、謎のボランティア"音霜さん"によって脱することができた。
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