音霜さん

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音霜さん

 俺はまたしても、絶体絶命の危機的状況に立っていた。  内部資料の遺失なんてまだ可愛い方だと思えるくらいの過失……いや、犯罪だ。  家族がとっくに寝静まった23時50分。  俺は手洗い場で指先と爪まで念入りに洗い流していた。  水の冷たさなんて最早感じなかった。  高鳴る心臓はまだ落ち着きを取り戻さず、両足はガクガクと震えながらも俺の上体を必死に支えている。  蛇口から流れ出す澄んだ水は、俺の手に触れると(くれない)に変色しながら排水溝へと吸い込まれていった。  そうだ。俺は今夜、人を殺してしまったのだ。  手も足も目立たぬよう小さく分けて丁寧に個包装し、山林の十数箇所の土に埋葬した。  しかし、切るのに使った刃物を現場に落として来てしまったのだ。  「落とし物さえしなければ、完全犯罪だったのにっ!」  俺は綺麗になった手をタオルで拭くと、リビングに戻り壁を殴った。  「いや、待てよ?音霜さんなら……」  頭をよぎったのは、救世主の存在だ。  しかし、善意のボランティアが犯罪に使った道具を通報もせずに家まで運んでくれるかどうかは甚だ疑問だ。  それでも、自分1人で暗闇の中で広大な野山を捜索し、見つけ出せる保証なんてどこにもない。    「音霜さん、音霜さん……」  声を震わせながら小さく呟く。  冷静に考えれば、俺のストーカーでもしていない限り、たった50分前に落とした刃物を拾って届けることなんて不可能なはずだ。  しかし、生まれて初めて犯した重罪で正常な思考能力を失っていた俺にとって、この状況下で音霜さんを頼ることは自然なことであった。  「私の大事な落とし物、届けてくださいな」  すると、静まり返った家の中に、玄関ドアが敲かれる音が伝わってきた。  「助かったぁ!」    俺は音霜さんに口止め料を払おうと、財布の中にあった1万円札を3枚全て握りしめ、扉の方へと早足で向かった。  ドアを開けると、そこには予想通り"音霜さん"が立っていた。
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