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母は短大を出て就職した。
そこで私の本当の父親である桐生さんという男性と恋に落ちた。
桐生さんには当時既に結婚を約束していた女性がいたが、出会ってすぐにお互い惹かれあってしまったと言う。
「愛っていうものを初めて感じてしまったのよ。」
恥ずかしげもなくそう言い放つ母は女の顔をしていたが、そこに嫌悪感などなく、私は何故かすんなりとそれを受け入れた。
「彼の婚約者もね、同じ会社でしょう。もう毎日がドラマのようだったわ。」
どの場面を思い出しているのだろうか。
母はさっきとは違って、苦しそうな表情を見せた。
誰が何といおうと、止められない気持ちがある事を私は知っている。
人が人を好きになるのは、そこだけ見たら本当に素晴らしいことだ。
でもそこには好きだけじゃなくて、それぞれのいろいろな気持ちがあって、喜怒哀楽、だけじゃない言葉になんか表す事が出来ない無数の思いが星屑のように存在する。
「桐生さんね、婚約を破棄するって言い出したの。私は本当に嬉しかったわ。
でもね、彼女はそれを受け入れてくれなかったのよ。彼女はおかしなところまでいってしまってね。桐生さんは、それをほっておけるような人じゃなかったの。本当に優しい人なのよ。
彼は追い詰められていったのが分かったわ。そんな時よ、あなたがお腹の中にいるのが分かったのは。」
そう言うと、母は一雫の涙をこぼした。
つられて、私も鼻の奥がツンとして目に涙が沢山滲んでくる。
「嬉しかったのよ〜。大好きな人のこどもを授かるってね、それまでのどんな事より嬉しいものよ。」
母はまた流れた涙を、今度はスカートのポケットから出した花柄のハンカチでおさえた。
ピンポーン♪
「あ、お寿司やさんかな。」
母は、ハーイと言いながらバタバタと玄関へ向かった。
私はそれを見て、キッチンへお湯を沸かしに席を立った。
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