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2.守りたいものと壊したいもの
コーヒーの良い香りがミーティング後の体に染み込むなあ、と思いながら千広は職場近くのコーヒーショップでしみじみ味わっていた。いつもなら缶コーヒーですますのだが、待ち合わせにここを指定されて彼を待っていた。待つこと数分。少し長い髪の毛をハーフアップにした彼が千広の前の席に座った。
「悪い、待たせたな」
「そんなに待ってないよ。それに俺の用事だし。わざわざすまない、弓谷」
手にしたコーヒーをテーブルに置き一口啜る。弓谷は友人の友人という間柄だが、何故かウマがあって一度一緒に飲みに行った。千広は例の悩みごとを電話で聞こうとしたのだが、丁度職場の近くに行く用事があるから会うかと弓谷の方から誘われた。
「それで悩みって?」
千広は凛と配信をしていることや、ダイレクトメールのことを打ち明けた。凛が恋人であることは伏せながら。弓谷は話を聞きながらジッと千広の顔を見る。
「……という訳なんだけど」
話し終えて、ちら、と弓谷の顔を見る。口元を押さえながらため息をついた。弓谷は割と綺麗な顔をしている。友人からモテるけど、彼女を連れてるのを見たことがないと言っていた。何故だろうか。
「結果から言うと配信からデビューってのは結構あるよ。売れたやつは少ないけどな。声かけられるのもよくあるし……ダイレクトメール、見せてもらってもいいか?」
千広は凛から転送されたメールを表示させ、スマホを千広に渡す。それを読んで弓谷は少しだけ驚いた顔をする。
「何か変なこと書いてある?」
「いや。メールを送ってきた【グローアップ】ならしっかりした会社だから大丈夫だよ。しかもこの署名の奴……へぇ、担当変わったんだな」
「知ってるの?」
「ああ。一回、撮影の時に関わったことがあって。当時は営業だったんだけどなぁ。結構やり手なんだって周りから聞いてたんだ。若いのにさ、お前より年下だぞ」
「そうなんだ。てっきりおじさんかと思ったよ」
「まあコイツならしっかりしてるし、一度話だけでも聞いてみな。相方の高校生のためにも」
そう言うと弓谷はコーヒーを口にする。千広もコーヒーを飲んでいると、ふと店内に流れているピアノの曲が耳に残った。以前、凛と一緒に弾いた曲。もう数日、凛にメールをしていない。寂しがりやの凛はなにを思って過ごしているだろうか。
「お前のことだから、今の生活を崩したくないって思ってるんだろ? だけど相方の高校生は今がチャンスなんだ」
弓谷が諭すようにゆっくりと話す。その言葉に千広は顔をあげる。
「お前がやってる仕事は、その子のチャンスを潰すくらい大切なものなのか? 誰にでも転がってくる話じゃないんだぜ。それにお前自身もチャンスだ。自分の作った曲を万人が聴いてくれるって。配信とは訳が違うんだ。俺はやってみたらいいと思うけどな。お前の曲、俺は好きだぜ」
「え、聴いたことあるの?」
「配信を見たことあるんだ。ウチの若い奴が流行ってるものとか拾ってきて教えてくれる。この業界はトレンド掴んでおかないといけないし。その中で、見たんだよ。まさかお前とはな」
弓谷の広告代理店は規模は小さいものの、評判が良く業績も良いと友人から聞いていた。先日も大きな夏フェスに関わって成功を収めたらしい。そんな会社にまで知られているなら、自分たちは自信をつけてもいいんじゃないか、と千広は思い始めた。
「ま、とりあえず会ってみろ」
弓谷に背中を押され、千広は届いていたダイレクトメールに詳細を聞きたいと返信した。返事はすぐ戻ってきて出来ればお会いしたいと書いてあったので、仕事が早く終わる水曜日の夜に担当と会うこととなった。指定された店で待っているとラフな格好の男性が話しかけてきた。
「船澤さん……でらっしゃいますか?」
明らかに年下の彼は人懐っこい笑顔で千広の名を呼び、頭を下げる。茶色い瞳と髪の毛が可愛らしい。
「はい、船澤です」
慌てて頭を下げると彼はますます笑顔になった。
「初めまして。【グローアップ】の姫野陸斗です」
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