0人が本棚に入れています
本棚に追加
毎日ずっと疲れることばっかりだ。
上司からの𠮟咤、取引先への謝罪、積る残業。もう頭が痛い。
定期券を駅員にみせ、改札をくぐる。駅の清掃員が、ごみをけだるそうにはいている。ゴミにはたばこの吸い殻が多くみられた。ポイ捨てする輩がいるのだろう。
ホームで電車を待つ。冬の始まりのころ、夜には息が白くなる。蛍光灯によってよりくっきりと見えた。電車のドアが目の前に現れ、その中に入る。
終電の中には、自分と同じような年のサラリーマンが死んだような顔でうつむいて揺られている。
俺も彼と同じような目をしているのだろうか。まだ、そんなことないよな。
窓ガラスに映った黒い自分を見ながらそんなことを考えていた。
「ただいま」
玄関のドアを開ける。まだリビングの明かりがついているようだった。
私は彼女に残業があることを連絡するのを忘れていたのを思い出した。
頭に手を付ける。
私には同棲をしている彼女がいる。彼女のおかげで毎日を頑張れて仕事をしている。
彼女は小説家でほとんどの時間を家で過ごしているため、この時間普段なら寝ているのだ。
まだ仕事をしているのかと、ゆっくりとリビングのドアを開ける。
そこには、ソファで寝ている彼女の姿があった。
机にはご飯が二組置いてある。鮭と煮物にそれぞれラップにかかっておいてあり、茶碗とお椀は埃を避けるために逆さになっていた。
どうやら起きて待っていてくれたようだ。連絡がないから、帰ってご飯を食べさせるまでは寝ないと意地になっていたのかもしれない。彼女はそういう人だ。
俺連絡をしなかったばっかりに彼女を毛布も掛けずに眠るまで待たせてしまっていた。
ごめんと心の中で謝りながら、彼女に毛布を掛ける。ゆるくウェーブのかかった湿ったような茶色い髪はお風呂に入ったことを物語っていた。彼女の寝顔もかわいかった。
ネクタイを緩めながら食卓に向かい、ゆっくりと二つのラップをめくる。ぺりぺりとめくりながらくしゃりとつぶした。
お米を、食べるために炊飯器を開けると蓋は勢いよく跳ね上がり、音を立てて、止まった。
その音に反応したのか、彼女がばっと起き上がり寝ぼけ眼でこちら側を見た。
「……お帰り」
「……ただいま」
不思議な間が流れる。
彼女はゆっくりと肩を回しながら起き上がり食卓に座った。どうやらご飯の準備をしてほしいという意味らしい。最も、すること言ったらお味噌汁とご飯を盛り付けることくらいなのだが。
「連絡なかった」
不機嫌そうにこちらにいった。
「ごめん、連絡できなくてどうしても手が離せない事案があったから」
本当は忘れていたの主な原因だったが、小さなうそをつく。手が離せなかったのは本当だ。
ほっぺたを膨らませながら、仕方がなさそうに彼女は目をつぶった。
ご飯を盛り付け食卓に並べると、小さく
「いただきます」
といって私達は食べ始めた。
夕食中、特に会話がなかった。彼女が半分寝ているようにご飯を口に運んでいた。
食器と箸がこすれることだけが聞こえる。
突然彼女が口を開いた。
「ねえ、肩もみしてあげようか?」
「肩もみ?」
今までしたことがなかった提案に少し困惑する。
「そう肩もみ、知らないの?」
「知ってるけど、どうして突然?」
「疲れているかな、って癒し系のキャラを書いているから」
なるほど、癒し系のキャラ。癒し系のキャラってなんだ?
彼女は主にトレンディな小説を書いている。今流行りのキャラなのだろうか。
「それに最近触れてないし」
彼女はずるい。本音じゃなくても、そんなこと言ったら断れないではないか。確かに最近忙しくて夜のほうも随分としていない。
「わかった、よろしく」
「ん」
彼女は鼻を鳴らして返事した。照れくさいのか、ただ寝ぼけているのか。
彼女は再びご飯のほうへ視線を向け、パクパクとご飯を食べていた。
「どうぞどうぞ」
「はいよ」
もう眠たくないのか、ぱっちりとした目を見開いて髪の毛をいじりながら、彼女は寝ていたソファに腰を下ろし、私はその前に座った。
彼女のいつもパソコンに向かっている手が肩に延ばされる。
その手は細く繊細で、華奢だった。
しかし、力強い彼女の肩もみはたちまち私の肩をほぐしていった。
これからどんな癒し系のキャラが生まれるのか、それともただ自分に触れたいだけなのかわからないがゆっくり、時に早く集中的に肩をもんでいった。
コリコリと音を立てて、肩の重さがどんどん抜けていく。
「どうですか、お客さん。あたしの癒しは」
彼女がもみながら訪ねる。マッサージ師になり切ったように、張り切った声だった。
「ああ気持ちいよ」
彼女は不機嫌になったようで、少し声を低くして
「そうじゃなくて癒されてるって言ってよ」
「ふふ、ああ癒されているよ」
彼女はどうしても癒し系のキャラになりたいようだった。私は笑って目をつむった。
ふふんと自慢げな彼女はひじなども使い肩こりを癒してくれている。
もう夜の一時を過ぎようとしたころ、
「じゃあ変わるよ」
私は彼女に提案する。
「いいの?もう夜遅いよ」
「お返し」
私は立ち上がって、肩もみの特等席を譲った。スライドするように移動した彼女の後ろに移動し、彼女の背中を見る。
小さな背中だ。
彼女の肩に手を当てる。ひどく硬くなっているようだった。彼女はずっとパソコンに向かって、うなりながら仕事をしている。
休日も決まった時間に起きて、そこからパソコンに向かっている。デートにいこうといえば、付き合ってくれるが最近は休日出勤ばかりでそんな暇もなかった。
彼女の肩をもむごとに、彼女から甘い吐息が漏れる。それと同時に、意思のようになっていたコリが流されていくように消えていく。
どれだけ凝っているんだと思いながら、半ばあえいでいるような彼女の背中に向かっている。
彼女とは、学生時代からの付き合いだった。大学生のころ、サークルが同じで年が一つ下の彼女は私のことを先輩と敬ってくれた。私のほうから告白し、彼女は快く受け止めてくれた。しかし、後から聞けばかなり私のことを狙っていたという。私はまんまと策に踊らされたらしかった。
先に社会人になった私は、彼女のことをうらやましく思いながら仕事にいそしんだ。大学生で自由な彼女をうらやんだりもしたが、暇なときにあって逢瀬を楽しみ、会社であったことや最後の大学生活についてを話したりした。
彼女も大学を卒業し、大学時代からひそかに書いていた小説を出版できることが決まると専業の小説家になった。
私はうれしかった。もし彼女が私と同じように会社に就職していたら彼女が働いている男たちに嫉妬していただろう。私は休日しか会えないのに彼らは平日8時間彼女と一緒にいるのだから。
同棲を切り出してきたのは彼女だった。彼女の言い分として、少しでも小説に時間をかけたいし、私とも一緒にいたいからという理由だった。
私は快く了承した。その時ぐらいから、会社で責任というものを理解し始め、仕事がつらくなっていたから彼女との同棲は万々歳だった。
今同棲して1年目、彼女との生活は別々に住んでいた時よりもドキドキは減ったかもしれない。しかし、毎日が幸せだった。
この幸せを手放したら、本当に終電に乗っていたあのサラリーマンのように死んだ目で最終列車で退勤し楽しみもなく死んでしまうだろう。
「結婚しよう」
彼女の肩をもみながらそんな言葉がポロっと出た。
彼女は気持ちよさそうにあーと声を出していたが、その言葉をつぶやいたときぴたりとやんだ。
彼女は肩を震えながら、ゆっくりとこちらを向いた。目には涙をいっぱいにためている。
「空耳かな?」
鼻声で私に問う。手に彼女の震えが伝わってくる。
「空耳じゃないよ、結婚しよう」
「でも、あたしがさつだし」
「関係ないよ」
「きついことばかり言うし」
「本音をありがとう」
「今日って何かの記念日だったかな?」
「今から記念日にするよ」
そこで彼女は耐えられずに涙をこぼした。
「ありがとう、うれしい」
その時、彼女が天使に見えて、さっきしてもらった肩もみよりも癒された気がしたが、これは死ぬまで黙っておこうと思う。
「ぱぱだっこ」
まだ自分の親指程度の大きさしかない靴を履いた少女が抱っこという意思表示をしてきた。
三年前、予定のない突然のプロポーズで結婚準備などかなりバタバタしていたが、無事に籍を入れれた。
その一年後、仕事も厳しいと思う時期も過ぎ去って少し楽しくなってきたころ、私たちは本当の天使に出会うことができた。
その瞬間、自分が物語のモブキャラになった気がした。このメインヒロインをいかにして育てるか。それが、私の目標になった。
しかし、それと同時に仕事にも慣れて楽しくなってきてしまった。私は、娘の成長と自分の楽しみのはざまに入り込んでしまったのだ。これはとても楽しかったが、同時にどれだけ仕事にさけるのかという苦悩も発生させていた。
休日、娘と妻と一緒にドライブに出かけていた。アウトレットで服を買うのが目的だった。娘はついてからすぐ抱っこをねだり、私は抱っこしながらアウトレットの中を歩き回った。さらに購入したすべての商品を私が持ち、行きも帰りも私が運転していたため、家についた後かなり疲労困憊していた。
娘は、帰りの道ですぐに寝てしまうものだと思っていたがそんなことなく家に帰った後も興奮を抑えられない様子だった。
何が娘をそんな風にさせるのかはわからなかったが、妻のほうが余計に疲れているようだった。
私が、プロポーズした少しくたびれたソファの前にドカリと座り、ビールの缶を開ける。
妻は私にお疲れの意味を込めて肩もみをしてくれるようだった。私の後ろに座り、もんでくれる。あの日よりも力が衰えたかもしれない。
「ありがとう」
と感謝の意を伝える。
するとそれを見ていた娘が、
「あたしがやる」
と、私と妻の間に無理やり入り込んできた。頭をけられ危うく飲んでいたビールをこぼしそうになったが、ぎりぎりのこぼさずに済んだ。
そのまま私の肩をもむ。もむというよりも乗せるといったほうが近いかもしれない。生まれた直後、私の指をぎゅっと、握ってきた手が、今では肩をもんでいるのだ。まったく力のない小さな手の弱い肩もみだったが、これまでにない癒しを与えてくれた気がした。
「これは、たまらないな」
そうゆっくりとつぶやくと、妻は少しすねた。娘は上機嫌になった。
この肩もみが与えてくれる癒しは、どれだけお金は払って、どれだけうまいマッサージ師にマッサージしてもらっても真似することができないだろう。それに、私だけにしか効かないだろう。私だけの特別な肩もみだった。
妻には申し訳ないが、今の私の人生の癒し系ヒロインは娘になっていた。
妻よ。すまない。
娘は私たちの愛情をゆがみなく受け止めすくすくと成長し、ついには結婚した。相手は好青年で、文句のつけようがない若者だった。しかし、私は娘を笑って送り出すことができなかった。式場で一番泣いていたのは間違いなく私だろう。
それを見て娘は、
「なに泣いているの、死ぬわけじゃないのに」
と笑っていたが、ヒロインを取られた私の気持ちはわからないだろう。
もしかしたらこれはうれし涙なのかもしれないが、私の心の表面は娘という大切な存在を取られたことによる嫉妬だった。
娘の結婚相手を一発殴ってやろうかとも思ったが、そうすれば娘は自分の前から姿を消してしまうだろうと思い、ぐっとこらえた。
そうして、私のヒロインは私の目の前から姿を消した。
時は流れ、私は定年を迎えた。妻はいまだに小説を書き続けている。あれからいくつかヒット作品を生み出し、もう何不自由のない生活を送れるほど稼いでいたが、それでも書き続けていた。
定年間際、私は私よりも稼いでいる妻に捨てられてしまうのではないかという不安を持っていた。私はただのサラリーマン、彼女は稼いでいる作家、不釣り合いだと思っていたからだ。そのころ熟年離婚というワードがニュースになっていたせいもある。しかし、それは杞憂に終わった。
妻はいまだに私を愛しているのだといった。
第二の人生彼女は私の肩をもみ、私は彼女の肩をもんだ。
彼女は私の肩をもむとき必ずプロポーズの話をした。あれは予想できなかったと、ロマンチックなのは期待していなかったがもっと時を選んでほしかったと笑っていた。
互いに癒しあってこれからも生きていくのだろう。
やはり私の癒し系ヒロインは彼女だと確信した。
妻よ、ありがとう
よぼよぼの老人たちの肩もみだろうが、私にとっての物語は誰よりも幸せだと思う。
最初のコメントを投稿しよう!