そして空は白み始める

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そして空は白み始める

 夜半過ぎ。  徐に立ち上がると、スガヤは玄関の鍵を開けた。  そしてドアを開け放つ。  翼を広げて見せてほしい。  そう懇願するためだった。  そのスガヤの願いは、同時にそのまま飛び立って逃げてほしいとの言葉を含んでいた。  スガヤの思いがわかっていたからか、スガヤと共に出た家の外で、月明かりの下、黒は漆黒の翼を一気に開いてみせた。  それはさながら一服の絵画のようだった。  スガヤは息を飲み、無意識のうちに熱くなる胸を片手で押さえていた。 「黒、今にも飛べそうだな。」  震える声でスガヤは言う。スガヤの言葉に応えるように黒い瞳を細め、黒は大きく羽ばたいた。  だが、羽ばたいても羽ばたいても、風が巻き上がるのみで黒の身体は宙へは浮かない。 「・・・本当に、飛べないのか?」 「まあな。羽根が切られてしまえば、飛べないのは道理だ」  そして黒は羽根を畳んだ。 「もう一度、もう一度挑んでみよう。きっと飛べるぞ。」  泣きそうな顔ですがるスガヤを見て、黒は薄く微笑んだ。微笑むだけで何も言わず、黒はスガヤの肩をポンと叩いて家の中へと戻っていった。 「黒、今しかないんだぞ!飛ぶなら今しかない!夜が明ければ、お前はまた拘束されるんだぞ!」  どんなに言葉を紡ごうとも、黒は決して飛ぼうとしなかった。      ・・・  もうすぐ夜が明ける。  テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたが、スガヤも黒も、言葉少なにじわりじわりと白んでいく窓の外を眺めていた。  東の空から太陽が登ってしまえば、もうこの家を出なければならない。 「そういえば、」  静寂の中で、不意に黒が言う。  スガヤは黒を見た。  黒も真っ直ぐスガヤを見ていた。  そして黒は穏やかな笑みを浮かべてスガヤに語を紡いだ。 「お前の名前を、聞かせてくれないか。」  今さらかと、スガヤは笑う。 「スガヤだ。」 「スガヤか。そうか。」  黒は嬉しそうに二度三度頷き、 「俺の命が尽きるその瞬間まで、お前の名だけは覚えていよう。」  強い決意を込めた黒い瞳でスガヤを見つめた。 「・・・」  スガヤは驚き、そのまま身動ぎ一つ取れなくなった。  ただ一筋、暖かい涙だけが頬を伝って床に落ちた。  その涙の跡を黒は身を乗り出して掌でぐいっと拭い、 「こんなに素晴らしい夜なのだ。泣くなスガヤ」  愛おしそうに笑った。      ・・・  薄汚いマントを羽織って翼を隠し、鉄でできた拘束帯を、黒が自ら装着していく。  まずガチャンと鉄の音を響かせ足首を固めた。  そして太い鎖のついた鉄の首輪を付ける。 「・・・」  その様を、スガヤは怒ったような顔でずっと見据えていた。  スガヤには一つ固めた決意が胸にあり、だが何度も口淀む。それでも意を決し、スガヤは静かに言った。 「黒、人間にならないか?」  それが何を意味するのか。  スガヤは強い意思を持って自身の服のボタンに手をかけた。  そのスガヤの手の上に、熱く大きな手が重なる。 「やめておこう。今の俺が人間に堕ちても、お前の糧にはなれない。寧ろ足手まといだ。この細くなった四肢では、お前を守り通す自信がない。」 「馬鹿にするな!私は私の身ぐらい自分で守れる!お前に助けてもらいながら生きることなど考えていない!」  悲鳴のような声だった。  意地になって服のボタンを外そうとするスガヤの手を、黒はギュっと握った。 「俺が耐えられないのだ。今さらこの羽根など惜しくはないが、俺の代わりにお前が奴隷として生きることも、追手に追われながら生きることも、させるわけにはいかない。それは耐えられない」 「今だって、私はまともに生きてはいない。お前が思うほど、私は綺麗な人間じゃない。」  スガヤは俯き、震えていた。握られている黒の手の上に自分の手を乗せ、胸にしっかり押し当てた。 「お前が欲しいんだ、黒」 「・・・」  黒はゆっくりスガヤを抱き寄せた。  愛おしそうにスガヤの背を擦る。  そして顔を上向かせ、唇を重ねた。  一度離れ、そして再び深く。 「スガヤ、お前は十分、綺麗だ」  黒は愛おしそうに微笑んで、スガヤの頬を撫でると、ゆっくり離れていった。 「黒、どうしても、駄目なのか、」  離れかけた黒の腕を掴む。  だが黒はその手を優しく剥がした。 「すまんな。俺は不甲斐ないな」  自嘲気味に黒は笑う。 「お前は不甲斐なくなどない。黒は優しいだけだ。優しすぎるだけだ。でもそんな優しさ、私はいらない。私はいらない!」 「スガヤ、生きてくれ。俺はそれだけが望みなのだ。希望なのだ。こんな人生で初めて見つけた希望なのだ。夢を、見させてくれないか」 「お前がいないなら、私にとっては夢でも希望でもない!お前となら、一緒に死んだって構わないんだ!こんな命なんて、捨てたって構わない!お前が欲しいんだよ!」  スガヤは駄々っ子のように泣きながら訴えた。黒は声をたてて笑いながら、スガヤから離れ、自身の腕に拘束帯をはめた。 「どうして、」 「愛しいものには幸せになってもらいたいと願うのが道理だ。それは譲らん」 「そんなのは嫌だと言ってる!」  スガヤは黒の胸に飛び込み、声をあげて泣いた。  黒は拘束された腕をスガヤの背でだらりと下ろし、もう抱き寄せることはしなかった。 「スガヤ、行こう。もう時間だ」  窓から差し込む光が白い。  黒はスガヤを引き離すと、太い鎖を引きずりながら、自ら外へと出ていった。
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